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津田恒実胴上げ投手の真相は…北別府氏「あれはドラマ用に作られた美談です」

 炎のストッパーと呼ばれ、多くのファンを魅了した元広島の津田恒実さんが亡くなって28年(7月20日が命日)になる。デイリースポーツウェブ評論家の北別府学氏は弟分のようにかわいがっていた同氏を偲び、現役時代を回想した。

   ◇  ◇

 津田は私より3つ下だから、生きていたらこの8月1日に61歳の誕生日を迎えていたんだよね。いまだに思うけど、現役真っただなかの発症だったから本当に無念だったろうね。

 彼とはよく食事に出かけたし、家にも遊びに来てくれた。清川と一緒に呼ぶことも多かったけど、1人でふらっと来ることも多かった。

 2人には中継ぎと抑えという役目で助けてもらっていたし、感謝の気持ちもあったからね。

 津田は投げっぷりだけじゃなくて、食べっぷりもよかった。家内がお米を炊き直すほどの大食漢だったよ。

 家内とは同い年ということもあって、私には言えないようなことも話していたみたい。結婚の相談とかね。

 茶目っ気があって、いじられキャラ。楽しい男でしたよ。そんな男が、一転マウンドに上ると人が変わる。

 入寮するとき、「弱気は最大の敵」と書いたボールを持ち込んでいた。元来は繊細な性格だから、窮地に陥ったときに、気持ちを奮い立たせようとしていたようだった。

 私が「不動心」を座右の銘にし、どんな状況でも気持ちが動じないようにしているのと同じでしたね。

 彼に対する信頼度は120パーセント。私が投げた試合で抑えに失敗したのは、最後の登板となった巨人戦を含めて2回しか覚えていない。大野豊さんもすごかったし、津田もすごかった。

 そんな彼が脳腫瘍で倒れるなんて思いもよらなかった。

 ただね、1991年のシーズン中に発症したのだけど、その年のキャンプイン直前に我が家に来た際は普段と違い、ご飯をあまり食べずにゴロゴロしていた。本人は風邪気味だと言っていた。

 その時に強引に検査なり勧めていればという思いが今でもある。

 闘病生活を2年ほど続けた正月に電話がかかってきてね。「ダイエーの入団テストを受けます。もう一度、プロ野球の世界に戻ります」と。

 野球がしたくてたまらなかったんだと思う。その願いは叶わなかったけど、あのときは電話しながら、お互いに泣いた。

 (2人のエピソードとして語り草となっているのが1986年10月12日、リーグ優勝を決めた神宮でのヤクルト戦の胴上げ投手)

 八回まで私が投げて九回に津田が締めたわけだけど、テレビドラマなどでは、私が首脳陣に「最後は津田に投げさせてやってください」と直訴したような美談になってますが、実際は何も言ってないんですよ。

 その数日前、新聞記者さんからの胴上げ投手の質問に「僕が優勝を決める日に投げているなら最後は津田が投げていると思いますよ」と答えたのを知っていたんでしょうね。

 当日、八回を投げ終えてベンチへ戻ると、みんなに「ご苦労さん」と言われて初めて分かったぐらいだから。

 その年、私は前半戦調子が上がらず、他の先発投手もよくなくて津田の右腕に頼りっぱなしだった。だからそんな発言になったんだけど、当然の配慮だったと思いますね。

 2012年の1月に私は野球殿堂入りを果たすことができました。そのとき津田も一緒に殿堂入りしているんです。

 満開になったと思えば、あっという間に散ってしまった。短命に終わった彼の野球人生だったけど、その功績を認めてもらえたのは本当にうれしかったですね。

 私の殿堂入りは津田のお陰でもあるわけだし。彼の存在はずっと私の心の中にありますよ。

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