「2人の水谷」駆使した豪打 多数の好打者育てた名伯楽 水谷実雄さん死去から1年
「2人の水谷」をフル稼働させ、一時代を築いたスラッガーだった。広島と阪急(現オリックス)で右の強打者として活躍し、水谷実雄さん=元デイリースポーツ評論家=が昨年8月10日に77歳で亡くなり、1年が過ぎた。猛練習と独自の観察眼で地位を築いた方だった。
「2人の水谷」とは、自身の役割分担のことだ。
水谷さん たとえば、遅い球に詰まって凡退した打席があったとしよう。ここで「相手投手の球持ちがよかったからだ」などと分析する。勉強し、研究して傾向を考える。その水谷が、実際に打つ水谷に指示を出す。だから2人なんや。
独自の「2人態勢」確立には、若き日に教わった「割り」という技術があった。70年に1シーズンながら指導してくれた、関根潤三コーチに叩き込まれた。右足に重心を残したまま、左足を踏み出す。右足に重みが残っていれば、どんな投球に対しても腰の回転を利かせたスイングが実現するというわけだ。
顔の前で斜めにバットを構え、投手を威圧するようにタイミングを取る。唯一無二の打撃フォームも、この「割り」がもたらした。周りから頻繁に「あんな構えで、よく打てますね」と聞かれたが「俺にだけ分かっていればいいんや」と豪快に笑い飛ばした。打つ瞬間にほんの少しだけ、右の手首を上げる。これで十分に振り下ろすことができたからだ。
この努力が、報われるときがやってきた。78年には、打率・348で首位打者を獲得。俊足巧打の1番や3番打者に多いこのタイトルで、お世辞にも足は速いとは言えない5番打者による異例の戴冠だった。
83年には阪急へトレードされた。ひとまず西宮市内の寮へ入り、さっそく猛練習を始めた。20畳以上あった畳を打席に見立て、素振りを断行。数日のうちにボロボロになり、球団は一枚残らず張り替える羽目になったという。
シーズンが始まると、さっそく「2人の水谷」がフル稼働した。長年のセ・リーグでの経験は、移籍によりご破算だ。持ち前の観察眼を、初対戦の投手たちに向けた。指名打者としての出場となり、自軍の攻撃中は一瞬たりとも相手投手から目を切らなかった。
水谷さん 西武の東尾(修)の球なんて、拍子抜けするほど遅かった。それでも平気で顔の近くに放ってきよる。だからそれをじっと我慢して、逃げずにスライダーをたたくんや。
この努力が実り、114打点でタイトルを獲得。本塁打も36本と、自己最多を更新した。
ところが、好事魔多し。翌年84年の開幕戦で左耳付近に死球を受けた。その後あの豪打は、二度と戻らなかった。後遺症に長らく苦しみ、気圧の変化で違和感が出た。、どんな天気予報よりも、雨が降る日が正確に分かったという。
水谷さん それでも「あのデッドボールがなかったら」なんて思ったことは、ただの一度もない。それだけは、言っちゃあアカンのよ。
引退後は打撃コーチの名人として幾多の強打者を育て上げた。退団するたび、次のチームから声が掛かった。江藤智、前田智徳、中村紀洋、福留孝介…。鍛え抜いた選手を集めれば、日本代表チームができそうだ。もちろん指導の原点にあったには、若き日に教わった「割り」だった。
水谷さん 素振りの音が成長の物差しや。一生懸命スイングしているうちに、きれいな「シャリッ」という音に変わってくる。それが一流打者の証明なんや。
「2人の水谷」を駆使した探求心と、「割り」で鍛えた匠の技。自身のみならず、球史に残る花をいくつも開かせた人生だった。(デイリースポーツ・高野勲)
