仰木彬は見抜いていた 岡田彰布を指導者に抜擢したのは「2軍で手を抜かずに自分を鍛えていた」から
日本シリーズの対戦カードはオリックス-阪神となった。この顔合わせが決まった際、頭に浮かんだのは、かつてオリックスで指揮を執り、岡田彰布との縁をつないだ仰木彬の存在だ。阪神の戦力構想から外れた岡田を受け入れ、指導者としての道まで用意した慧眼の士は、いま雲の上で何を想うのか。
仰木は岡田を認めていた。いや、評価するようになったというほうが正しいかもしれない。晩年を迎えたベテラン選手の移籍後の言動を観察し、指導者としての成功を確信していた。筆者がそれを感じたのは、岡田が現役最後のシーズンを送った1995年。8月23日の1軍登録抹消後だった。
リーグ優勝が迫る中での登録抹消は右肘の古傷不安と重なり、一気に引退話へと発展した。仰木も否定することなく、「これも人生勉強や」との言い回しで引退後のコーチ就任を匂わせた。
個人的に聞きたかったのは、なぜ岡田に指導者としての道を作ろうと考えたのか。「人生勉強」の場をオリックスで与えるその理由だった。
仰木はこの質問に対して、こんな答えを返してきた。
「(岡田は)ファームでしっかり調整してはい上がった。若い選手を指導したとかじゃなく、手を抜かずに自分を鍛えた姿がうれしかった。それがプロや」
オリックス移籍2年目を迎えたこの年、岡田は春先に1軍を外れファームでの調整を強いられた。古傷の悪化と体力の衰え。先が長くないことは誰の目にも明らかだった。しかし、岡田は若手に交じって泥にまみれ、一心不乱に再昇格を目指した。
6月10日に1軍選手登録。翌11日、GS神戸でのダイエー戦だった。岡田は5-5で迎えた九回二死満塁の好機に代打起用され、シグペンから四球を選んだ。
日曜日の夕方。“地味な”サヨナラ勝ちだったが、スタンドは笑顔満開。グラウンドでは阪神で華やかな成績を残したベテランが、たった1個の四球でナインと一緒に大喜びしている。
バットを振らずともチームの勝利に貢献できることを示した価値ある打席。この年、岡田が浴びた唯一の脚光だったが、仰木の心にはしっかりと残った。
1995年は阪神・淡路大震災が発生した年で、当時は神戸に本拠を置いていたオリックスも大きな影響を受けた。「がんばろうKOBE」のスローガンは被災地域の共通した思いで、ナインも勝って地元を元気づけようと懸命だった。
話はそれるが、仰木は神戸本社が壊滅的な打撃を受けた弊社(デイリースポーツ)にも理解を示してくれていた。
周囲の優勝ムードに「浮かれた様子を見せたくない」と断っていたV企画も、「地元のデイリーは別」と言って早い時期からカウントダウン連載を快諾。懐の深さを感じる監督だった。その人情味は岡田にも向けられたように思う。
「この2年間は彼にとって貴重な時間やったはずや。阪神での終わり方は決してよくなかったし、あのまま終わっていたら…井の中の蛙や。その井の中の蛙が他人の飯を食って新しい世界を知った。私も経験したが、これはきっとプラスになる」
93年オフに阪神を退団。あくまでも現役にこだわる岡田に手を差し伸べたのが仰木だった。その後2年の歳月が流れ、仰木はプレーヤー岡田の能力以上に、指導者としての才覚を見いだしたのだろう。
8月23日。1軍登録を抹消された岡田は「チーム事情やから、そらしゃあないで」と言ってロッカーの荷物をまとめた。
その後、阪神から2軍監督としての声がかかったが、岡田は仰木の人情に義理で応えるかのように、オリックス残留を選択した。
オリックス対阪神。さて仰木彬はどっちを応援するのだろう。やはりオリックスか。それとも…ヤボなことを聞くな!そんな声が空から降ってきそうだ。 =敬称略
(デイリースポーツ/宮田匡二)




