定岡智秋「肩だけで現役を16年」 野球ファンを魅了した伝説の「強肩」
南海の遊撃手だった定岡智秋は、1975年のオールスターで野球ファンを驚かせた。西武の黄金時代に鉄壁の外野陣を形成し、ダイエーでも日本一に輝いた秋山幸二らとともに、野球ファンを魅了した強肩の持ち主を紹介する。
1975年7月20日に中日球場(現ナゴヤ球場)であったオールスター第2戦。試合前に行われた遠投競争で、プロ4年目の22歳がファンを驚かせた。「肩の強い人ばかりだったけど、楽勝…だったかな」。定岡はいたずらっぽく振り返る。
参加メンバーは全セと全パから各3人。山本浩二(広島)、高田繁(巨人)、大橋穣(阪急)ら強肩選手が顔をそろえた。中堅後方から本塁方向へ3度遠投。他の選手が110メートル前後の中で、定岡は120メートルを軽々とクリアして全て圧勝した。
当時の西日本スポーツは「試合前に3勝」の見出しで報じ、定岡の「肩では誰にも負けない自信がある」との言葉も紹介している。「(遠投を)ちゃんと測ったのは、初めてだったかな。123~124メートルだったと思う」とこともなげに笑う。
有名な「定岡三兄弟」の長男。2人の弟もプロに進み、甲子園のスター投手だった次男の正二は巨人で通算51勝を挙げたが、肩の強さは長男が別格。「弟たち?問題にならなかったね」。遊撃に定着したのが、球宴初出場した75年だった。
遊撃での見せ場は「三遊間の深いところからの一塁送球。ほとんどノーステップだった」。当初は全力で投げるだけだったが、74年に在籍した一塁手・パーカーの助言で変わった。ドジャースで6年連続ゴールドグラブ賞に輝いた名手だった。
「高い送球は捕れないが、低い送球は何でも捕ってやる」。そこから「低い送球」の意識を徹底し、強肩を存分に発揮できるようになった。75年に入団したネトルスは、定岡の低くホップするような送球を「よく手首に当てていた」という。
定岡の肩について、三塁手だった藤原満は「球が山なりじゃなく、地面と平行にくる感じ。何よりコントロールが良かった」と振り返る。その上で「あれだけ肩が強いと、守備のフォーメーションも変わる」と振り返る。
当時の南海は、右方向に打球が飛んだ場合も中継に入るのは、二塁手ではなく遊撃手の定岡だった。「カットマンの定岡がボールを握ると、相手はみんな走者を止める。いわゆる(進塁の)抑止力。チームにとって大きかった」と話す。
定岡の通算打率は・232。通算88本塁打と一発はあったが、決して「打の人」ではなかった。それでも長く1軍でレギュラーを張れたのは、本塁への送球でも「ラインさえ間違いなければ、ほぼ刺せた」という肩があればこそだろう。
当時、オフに中百舌鳥球場で行われていた入団テストでは笑い話もある。2軍監督だった穴吹義雄に呼ばれ、参加者の前で「サダ、ちょっと投げてくれ」。ノーステップスローで外野フェンスを越すと、なぜか穴吹が「これがプロの肩や」と自慢していたという。
「俺は肩だけで現役を16年やれた」と笑う定岡は、一昨年8月から大分・柳ケ浦高の野球部監督を務める。「プロは一芸が武器になる。チャンスはいくらでもある」。今秋ドラフトでは教え子の田中瑛斗投手が日本ハムに3位指名された。今後は「第二の定岡」の育成も待ちたい。





