【阪神ドラフト選手特集・津田淳哉投手(2)】「投手クビ宣告」から磨かれた制球力

 10月のドラフト会議で、阪神から指名を受けた8選手(1~6位・育成1~2位)の連載企画。今回はドラフト6位・津田淳哉投手(22)=大経大=の第2回。

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 野球を始めた小学4年から投手一筋でやってきたが、高田商では苦しんだ。「全然コントロールができなくて、試合でも投げられなかった」。課題となった制球力。3年生が夏の大会で敗退して新チームになった2年、赤坂誠治監督から外野を守るように言われた。「投手クビ宣告」。最初は落ち込んだが、他の投手が投げている姿を外野から見て、制球力が高まるきっかけを探した。

 マウンドに立つことができない悔しさもあったが、外野手としても懸命に取り組んだ。2年秋には背番号9でベンチ入り。力強いバッティングを買われて4番に座ることもあった。だが、投手に対する未練はなくならなかった。3年の春。「ピッチャーをやらせてください」。赤坂監督に直訴した。

 シャドーピッチングや走り込みなどで、課題の制球力も改善。3年夏には背番号「10」でベンチ入りすると、奈良大会準決勝の大和広陵戦では完投勝利を挙げた。決勝の智弁学園戦ではリリーフとして登板するも敗戦。甲子園出場はあと一歩のところで果たせなかった。

 進学した大経大で投手として大きな成長を遂げる。コロナ禍ということもあり、授業は在宅でのオンラインになった。行くのはグラウンドのみ。余った時間は自主練習に費やした。練習場所は徒歩5分圏内にある母方の祖父・西田勝廣さんの車庫。ネットスローやボックスジャンプなど、投手に必要なトレーニングを調べて懸命に取り込んだ。

 日々の成果は数字として証明された。大学に入ったときの球速は最速134キロだったが、2年春には150キロを計測。球威が増したことで三振も奪えるようになり、主に救援投手として登板し、一気にスカウト陣からの注目も高まった。

 大学に入るまでは、ほぼ無名で、高校時代には一度、投手をクビになった右腕。夢の舞台に立つまでに、家族の支えが一番大きかったという。「祖父母もずっと大学のリーグ戦を親と一緒に毎試合見に来てくれた。恩返しできるように頑張りたい」と淳哉。「1日でも長く野球選手を続けられるように頑張ってほしい」と母・広美さんは願う。津田家の夢はまだ始まったばかりだ。

 ◆津田 淳哉(つだ・じゅんや)2001年8月27日生まれ。奈良県大和郡山市出身。178センチ、83キロ。右投げ右打ち。投手。片桐小4年から小泉ファイターズで野球を始め、郡山南中では志貴ボーイズに所属。高田商では2年秋から背番号9でベンチ入りし、3年夏は背番号10。遠投110メートル、50メートル走6秒7。球種はカーブ、スライダー、フォーク、ツーシーム。

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