なぜ廃止…歴史の闇に葬られた西宮競輪
2013年10月25日
このバンクの脱着にはそれぞれ半日もかかり、その費用は約700万円ともいわれた。他の競輪場と比べると余分な経費がかかりながらも『東の川崎、西の西宮』と呼ばれるほど売上は良く、全盛期には阪急ブレーブスの公式戦より入場者が多かった。では、なぜ廃止に追い込まれたのか。
売上減少はレジャーの多様化、ファンの高齢化、経済事情など理由はさまざまで一概には論じられない。だが次の一手として、ナイター開催を希望する声がありながらも(実際にはプロ野球で使用しており、競輪でも午後4時くらいの天候が悪いときは照明に明かりがともった)実現することなく終わったことが悔やまれてならない。もし実現していたら、大井競馬よりも早く公営レース初のナイター開催として注目を浴びていたことは間違いない。
今や、優良といわれている競輪場はナイター施設が整っている。その数すでに44場中10場。西宮の場合は周辺住民の反対、警備上の理由などで幻に終わっている。しかし、本音のところでは「野球はOKだが、競輪は駄目」という“差別意識”が根幹にはあったことは十分想像できる。では、競輪の何が差別されたのか。
1950年、鳴尾競輪場(のちの甲子園競輪場)で起きた騒擾(そうじょう)事件は別名「鳴尾事件」と呼ばれる。スペースを割くのでここでは割愛するが、ファンが消防車のガソリンを抜き取り投票所に放火、さらに売上金を奪おうとする暴徒に警察官が威嚇射撃して死亡者が出る事態にまで発展した。それ以降「競輪ファンは何をするか分からない」という世間一般のイメージができ上がってしまったのかもしれない。
現在、その跡地は「西宮ガーデンズ」という商業施設となり、ショッピングや食事に訪れる家族連れ、カップルで賑わっている。その5階「阪急西宮ギャラリー」ではスタジアムの歴史を刻んだ映像、パネルなどが展示されている。
しかし、この地でかつて競輪が開催されていた事実は、見事なまでに語られていない。西宮競輪はまさに歴史の闇に葬られた。
(デイリースポーツ・坂元昭夫)