【永山貞義よもやま話】野間の新境地 自己犠牲の待球打法 2番の仕事で“下克上”につなぐ
プロ野球の戦線が大詰めを迎えている中、その行方を見守るとともに、米国で普及している「2番打者最強理論」について考えていた。これは2番に強打者を置くことで、初回に大量点を奪う狙いのほか、クリーンアップに比べ、打席数が多くなりやすいという考えからのようだ。大谷翔平が主にこの打順に据えられているのは、日米のファンにはすっかりおなじみ。日本でも坂本勇人(巨人)に代表されているように、追随する動きも出てきている。
古典的な野球はそうではなかった。この「2番打者論」で思わず膝を打ったことがあるのは、昭和60年前後に脚光を浴びた女性野球評論家の草野進さんの論調。その著作、「どうしたって、プロ野球は面白い」(中央公論社)での記述を借りると、この打順は打線の中でも「特殊」との見方が特異だったからである。
それらの要点を拾い上げれば、まずは外見からして特殊。その顔は、さえた軽快さからも、派手な豪快さからも見放されて暗く沈み込み、犠牲者みたいな諦念が明るさを奪っている、と見えていたらしい。
役割自体、バントなどつなぎ役で活躍すると、よく務めを果たしたというのが褒め言葉。遊撃手や二塁手が多いのは、攻撃的であるよりも、防御的な機能がふさわしいと思われているから、との分析も鋭い。
「こんな2番打者を義務感や原罪意識から解放しうるイデオロギーが必要」との主張はいかにも先鋭的で、その論調は今にして思えば、昨年までの菊池涼介のことを述べているようでもあった。なにせ通算犠打数が歴代5位の328個だった防御的な機能を有した二塁手。この数字一つを取り上げても、いかに強いられた義務を献身的にこなしてきたかが分かる。
ただ「草野論」の定義の一つ、「暗い顔」とかけ離れていたと思うのは、常に涼しそうな表情で仕事をしていた姿。そのように菊池を仕立てたのは、さえた軽快さと派手さに彩られた超人的な守備力が、2番打者の地味さを打ち消して、なお余りあったからではなかろうか。加えて田中広輔、丸佳浩との「タナキクマル」と称されたトリオが2016年からの3連覇の中で、一つの個体として光彩を放っていたからでもあろう。
こんな菊池に代わって今年、主に2番に回ったのが野間峻祥。持ち前の俊足と好打から1番が最適と思えたが、据えてみると、「意外に似合っている」というのが率直な感想である。
そのスタイルは早打ち、送りバント型の菊池とは対照的に遅打ち、粘り型なのが特徴。具体的には初球はまず打たない、そして2ストライク目も狙い球以外は、ほぼ打たない。いわば追い込まれた後の1球に、勝負を懸けた「打たない2番打者」なのだ。
これほどの「待球打法」を採用したのは、後ろの打者に配球を見せるのが主な狙い。そして追い込まれると、粘りに粘り、相手投手を疲労させながら四球も狙う。これが野間ならではの、犠牲的精神に満ちた2番の仕事なのだろう。
こうした芸当ができるのは、もちろん大幅な打力の向上があってこその物種。以前は速球に対応できないため、早めに打ちにいっていたようだが、今は人のよさそうな素顔のままで、粘り打法を難なくこなしている。
野間については昨年、初の打率3割台をマークした際、本欄で「桃栗3年、野間8年」と書いた。入団9年目の今年はそれより、また一歩進化し、「打たない2番打者」としての新境地を開いたのではないか。
残念ながらリーグ優勝は絶望的になったが、まだCSでの夢はある。引き続き、野間の粘りに期待である。(元中国新聞記者)
◆永山 貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。阪神で活躍した山本和行氏は一つ下でエースだった。





