同郷の恩人高代延博

 【12月11日】

 筆者がプロ野球界で初めて食事を共にした人、それが高代延博だった。忘れもしない97年の秋。日南油津の小料理屋へ呼ばれると、「同郷のよしみ。よろしくな」とグラスを合わせた。

 「生まれは奈良のどこや?」

 学園前です。

 「ボンボンやないか」

 社内異動で広島へ赴任した同年春のこと。そんなケンミンネタも懐かしいけれど、カープ取材で真っ先に高代のもとへ挨拶に出向いたのは、郷が同じというただそれだけの理由だった。以来、ことあるごとに気にかけてもらい「キャンプでメシいこか」の誘いも忘れずにかなえてくれた。

 「誰を取材したいんや?」

 金本選手です。

 「なんでや」

 一番とっつきにくそうなので…。

 こちらまだ怖いもの知らずの20代。右も左も分からなかったが、当時「三村カープ」の名三塁コーチャーは「お前、見る目あるやないか」。キャンプ地の小料理屋でそんな話をしたことがつい昨日のことのようだ。

 高代さんが亡くなった…この度タイガースの関係者から訃報を知らされ、筆者が真っ先にLINEを送ったのは金本知憲。もちろん既に知っていた。

 「2回、見舞いへ行ったよ」

 金本にとって高代は「三恩人」のひとりである。16年前に三村敏之が、9年前に山本一義が旅立ち、そしてこの師走に…

 28年前の僕はカープ素人だった。あのとき、よくよく金本の入団時からのキャリアを調べてみると、三村からボロッカスにたたかれていたことを知った。典型的だったのは金本が2年目だった93年。横浜の三浦大輔からプロ初本塁打を放ち、周囲から「次スタメンあるぞ」と囃されたが、当の金本はまったく喜ばなかったという。

 高代は「ウチは守備走塁のミスには特に厳しいから。スタメンで出てミスしたら何を言われるかわからんという怖さがあるわな」と話していた。

 打たんと話にならん。打つだけでも話にならん。守備走塁部門を預かっていた高代も金本には容赦なかった。時にはバットのグリップエンドで…時代といえば時代だけど、その無類の厳しさが金本の反骨心をたぎらせた。

 赤ヘルの背番号10にとって分岐点は4年目を迎えた95年の阪神戦。8月終盤の甲子園でS・クールボーの大飛球を追って左翼フェンス前で転倒し、左手を骨折してしまった。そのシーズンの残り試合絶望。高代は残念がった。鬼の三村は初めて金本を称えた。

 「あいつ、絶対に捕ってやろう!と本能で打球を追っとった。結果的にケガしたけど、そういうがむしゃらな姿勢がようやく見えてきたからのう」

 そんな選手を「一番取材したい」と言った同郷の若造記者に高代は「見る目がある」と言ってくれたわけだ。

 「俺は選手とは酒は飲まんから」

 日南油津の小料理屋、そのカウンターで高代はそう言っていた。名参謀の矜持に乾杯。=敬称略=

編集者のオススメ記事

吉田風取材ノート最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング(阪神タイガース)

    話題の写真ランキング

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス