【阪神ドラフト選手特集・下村海翔(1)】自分で人生切り開いた中学時代の再出発

 10月のドラフト会議で、阪神から指名を受けた8選手(1~6位・育成1~2位)の連載企画。初回はドラフト1位・下村海翔投手(21)=青学大=の野球人生に大きな影響を与えた中学時代を振り返る。

  ◇  ◇

 生まれる前から活発な子だった。母のお腹をよく蹴飛ばし、生まれる時には自ら出てこようとした。6カ月で立って周囲を驚かせ、幼稚園では動き回ってよく怒られた。父・毅さん(53)と遊ぶとなればキャッチボール。家でプロ野球を見ることもあり、幼い頃から野球に興味はあった。「甲武ライオンズ」に入っていた同じ樋ノ口小学校の友達から誘われ、両親に入団を懇願。小学3年の4月に入団し、野球人生が始まった。

 入団してからは遊撃、三塁、捕手を守っていたが、玉岡充行監督(51)に勧められ、小学6年の後半に投手に転向。下村自身も投手が一番好きだった。「キャッチボールの投げ方を見ていたら、この子はピッチャーできるだろうなと。腕の振り方、胸の張り方、バランスを見て、いい球を投げるんだろうなと思った」と玉岡監督。

 早生まれで背は大きくなかったが、西宮市の陸上競技大会のソフトボール投げでは1位をとるほど肩も強かった。ただ、「エースでもなかったし、目立つ選手でもなかった」と下村。中学1年から入っていたチームではチーム事情で捕手を頼まれた。投手希望だったが、下村は「試合に出られるならどこでもいい」としばらく捕手を務めていた。

 数カ月後、練習から帰宅すると、突然父に「本当にやりたいのはキャッチャーなのか」と問われた。「やっぱりピッチャーをやりたい」。本心に気がつき、自然と涙が出そうになった。そこで下村は大きな決断をした。

 「強いところに行って、もがいてみてもいいかなと」。中学1年の冬に退団し、田中将大(現楽天)らを輩出した名門「宝塚ボーイズ」の体験へ。意識の高さに衝撃を受けた。「同級生が全員先輩に見えるくらいしっかりしていた。シートノックも全員本気の集中力だった」。上達するにはここしかないと思い、中学2年から入団した。

 「覚悟を持ってきてるんだな」と感じたという奥村幸治監督(51)。その恩師との出会いが下村にとっては大きかった。平日は学校の後に20時まで、土日は朝6時に集合し14時まで、週5日練習。グラウンド整備にも時間をかけ、草抜きを2時間することもあった。あいさつも厳しいチームだった。

 希望通り、基本は投手を務めた。とにかく基礎をたたき込まれた中、奥村監督が重視したのが「フィールディング」だった。ランナーを想定したケースノックや投内連係、けん制やカバーリングをひたすら毎日練習。ノックを2時間受けることもあった。

 「投げた後は9人目の野手という感覚が大事」だということを教え込まれ、「高校に入ったら、どこにカバーリングに行けばいいとか、自然とできるようになっていた」と下村。この特訓のおかげで、今ではフィールディングも武器の一つだ。

 中学3年ではエースの後を受けて登板することが多かった。奥村監督は「海翔が後ろにいたら安心感があった。ピンチでもマウンドでどうしようというのは見たことがなかった」と当時から下村の気持ちの強さを感じていた。夏には全国大会の「ジャイアンツカップ」にも出場した。

 下村の人生設計も少しずつ変化していた。「勉強で公立高校に行って野球部に入って、3年間やろうと思っていたけど、宝塚ボーイズで先輩たちが甲子園に行くような強豪校に進んでいった。もしかしたら自分も頑張ればそういう高校に入れるかもと」。いつの間にか当初の想定とは違う道を歩み始めていた。

◆アラカルト

名前 下村海翔(しもむら・かいと)

生まれ 2002年3月27日生まれの21歳。兵庫県西宮市出身

サイズなど 174センチ、73キロ。右投げ右打ち。投手

家族構成 父、母、姉、弟

球歴 小学3年時に甲武ライオンズで野球を始め、甲武中では宝塚ボーイズに所属。九州国際大付では1年秋からベンチ入りし、2年春から背番号1。青学大では1年秋から登板。23年の日米大学野球ではMVP

足 50メートル5秒9

遠投 120メートル

座右の銘 「一生懸命が一番かっこいい」。青学大・安藤監督からもらった言葉

名前の由来 父の趣味がサーフィンだったため「海」。海のように広く大きく育ってほしいという意味で「翔」

好きな食べ物 ラーメン

子供の頃の習い事 水泳、ピアノ

好きな芸能人 齋藤飛鳥、YouTuberのサワヤン

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