藤田平氏 初采配で4番桧山 どよめく甲子園…ノムさんも「なんで桧山なんや」

 阪神の暗黒時代、球団や選手に対する厳格な姿勢から「鬼平」と呼ばれた将がいた-。虎生え抜き選手初の名球会打者でもある元監督の藤田平氏(72)=デイリースポーツ評論家=が、1995年に就任した2軍監督時代から1軍監督を途中退任した翌96年までを述懐する。「最悪」と衝撃を受けた現場復帰当初のチーム状態から、新庄正座事件、桧山の4番抜てき、そして深夜にまで及んだ“籠城会談”など激動の虎を振り返る。(文中は敬称略、役職は当時)

  ◇  ◇

 “あの歓声”は今も耳に残る。休養に入った中村勝広監督の後を受け、監督代行として藤田が初めて指揮を執った1995年7月29日の横浜戦。後半戦開幕で甲子園に駆けつけたファンがどよめいた。入団4年目の桧山進次郎をプロ初の4番に抜てきしたのだ。

 「見渡したら桧山しかいないやろ、と。将来的なことも考えてね」。4番で出場予定だった石嶺和彦が、この日の横浜戦前に「へんとうせん炎」を発症して欠場。主砲のリタイアを受けての起用でもあった。

 「(桧山は)練習熱心で、長打力も備わっている。本当は5番や6番を打ってほしい選手だったけど、あの時の戦力では桧山しかいなかったから」。スコアは4-6で敗戦。猛虎71代目の4番に座った桧山は、七回2死から右翼線二塁打を放つなど4打数1安打だった。この年は4番として11試合に出場。着実に経験を重ねた。

 翌96年4月6日、東京ドームでの巨人との開幕戦で藤田は桧山を「3番・右翼」で先発起用した。桧山にとって初の開幕スタメンで、この年も4番として27試合に出場。最終的に22本塁打を放ち、プロ5年目で初めて2桁に乗せた。

 相手ベンチからは首をかしげられたという。特に疑問を投げかけられたのは当時ヤクルトの監督だった野村克也。「ヤクルトの監督はノムさんだったんだけど、『(4番が)なんで桧山なんや』って。だけどその後、ノムさんが阪神の監督をした時も桧山を4番にしていたからね」。藤田の後に阪神の監督を務めた吉田義男や野村も度々、『4番・桧山』でゲームに臨んでいる。

 最終的に95年のシーズン成績は130試合で46勝84敗。その内、藤田が監督代行として采配した53試合は17勝36敗。首位のヤクルトと36ゲーム差の6位で終わった。そして監督として初めて迎える96年シーズン開幕へ動き出そうとしていた。

 「われわれの先輩が築いてきた阪神という、巨人と並ぶ老舗の看板を崩してはいけないという思いがあった」。チームは86年以降、95年までの10シーズンでBクラス8度。現有戦力を分析し戦力を整えたい。それでも思うように事が運ばない。

 阪神・淡路大震災が95年1月17日に発生。阪神電鉄本社も大きなダメージを受け、例年のような補強費を出せない状況だったと藤田は述懐する。「(これまで球団は)監督が代わったら、そのタイミングで新しい外国人選手を獲ってくれていたけど…」

 外国人選手は前年と同じグレンとクールボー。補強といえば、以前から注目していたオリックス・平塚克洋を金銭トレードで獲得したくらい。前年とほぼ変わらない陣容で臨むことになった激動の96年。そして“あの日”を迎える。=敬称略=

 ◆藤田 平(ふじた・たいら)1947年10月19日生まれ、72歳。和歌山県出身。現役時代は右投げ左打ちの内野手。市立和歌山商(現市立和歌山)から65年度ドラフト2位で阪神入団。通算2064安打は阪神歴代2位。首位打者・最多安打各1回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞3回。通算成績は2010試合207本塁打802打点、打率.286。

 84年現役引退後、95年に阪神2軍監督から1軍監督代行。96年に監督就任したが、シーズン途中で退任。監督通算成績は170試合65勝105敗、勝率.382。現デイリースポーツ評論家。

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