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【昭和の虎模様】鎌田実氏「阪神だけは嫌。行かんよ」言い続けるも「だまされた」

 今年、球団創設85周年を迎えた阪神タイガース。長い歴史の中では多くの名選手、名勝負が生まれ、数々の“事件”もあった。昭和の時代にデイリースポーツでトラ番を務めた平井隆司元編集局長が、栄光と挫折の歴史を秘話をちりばめ連載で振り返る。

  ◇  ◇

 男男男男。鎌田実の兄弟はみな男である。その末っ子が実(みのる)。淡路島、今の南淡路で生まれ、育つ。あろうことか、生まれて10日目に父親が亡くなった。父親は近隣地区の情報、例えばスポーツ大会などを特化する新聞を発行し、生計を立てていたが、大黒柱が倒れ、家族は窮地に追い込まれる。

 「生まれて10日。そんなことある?だから、ボクは生まれたときから母子家庭なんよ」

 会うと、いつも鎌田は空を見てそう言っていた。長男もまだ働く年齢ではない。母親が新聞発行を引き継げるわけもなく、乳呑み児を抱き、島内の実家に引っ越し、呉服を売り歩く商いを始めた。だが、買ってくれるのは哀れを知る親戚だけ。母親は己の着物を質に入れ、また実父の助けも借りて生きた。

 四男の鎌田実が生まれたのは1939年。太平洋戦争勃発の2年前になる。淡路島は空襲も少なく、周りは海で温暖な気候。魚や野菜など食べ物に困ることはなかった。

 島の子はおおらかに生き、鎌田はだれもが目をみはる野球少年に成長した。高校生になると、プロのスカウトが神戸から舟に乗って島に来た。

 遊撃手だった鎌田実は「阪神だけは嫌。行かんよ」と言い続けた。中日のスカウト佐川直行が強く鎌田実を求め、同じ頃、巨人軍の監督・水原茂が人を介して鎌田実獲得に本腰を入れた。「慶応大に推薦入学、そして巨人軍に来てもらう。この約束は私が死んでも成立させる。私を信じなさい」と攻めた。中日も巨人も若いショート・ストップを求めていた。

 鎌田の母親は長男と次男を大学に通わせるほど働いたが、三男、四男までとなるとそうもいかず「堪忍な。許してな」と頭を下げた。四男の実は大学に入りたい。だから「(水原さんは)学費も寮費も生活費も面倒をみる、とゆうてくれてはる。慶応へ行きたい。どうしてあかんの?」と懇願したら、長男が末っ子を叱った。

 「お前は母さんの苦労(貧乏)を分からんのか。働いて給料をもらって、母さんを助ける気にはならんのか?」

 「でも兄貴は大学へ…」と言った途端、兄は立ち上がった。

 水原ルートを諦めた鎌田実に対し、中日の佐川が獲得へ全力を注いだ。最高額で契約しようとした直前、オーナーが「全国大会(甲子園)にも出てない高卒にそんな高い契約金は払えん。白紙に戻せ」と憤怒した。すると佐川はその場で退職を伝えて大阪へ戻り、鎌田の母親と長男、そして鎌田本人を甲子園球場前の旅館に呼んだ。

 「契約金、〇〇〇万円、給料〇〇万円。これで阪神へ入ってもらう。話はついてますから」

 と、鎌田家に時間を与えなかった。

 「息子さんが阪神を嫌がっているのは知っています。名手の吉田義男がいるから出番がないと。でも、人生なにが起きるかわかりませんよ」

 鎌田の母親は四男の苦々しい顔に向かって「ごめんね」と小さい声で謝った。佐川自身もちゃっかり阪神と契約している。

 後年、鎌田と会うと「だまされた。佐川さんにも母親と兄にも。てっきり中日と契約の話やと思ったのになあ。僕の人生、悔いばかり」と、ここでも空を見ていたように思う。=敬称略=

 ◆鎌田 実(かまた・みのる)1939年3月8日生まれ。兵庫県出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手。洲本から57年阪神入団。バックトスを日本に導入したことは有名。67年に近鉄に移籍し、70年に阪神復帰後、72年現役引退。通算成績は1482試合1041安打24本塁打264打点、打率・234。71~72年は阪神でコーチ兼任。近鉄でもコーチを務めた。肺がんのため2019年8月1日死去。享年80。

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