賀川浩さんが99歳で死去 日本サッカー記者の草分け、15年にFIFA会長賞を日本人で初受賞
国内外の大会を長年取材し、日本のサッカー記者の草分け的存在だった賀川浩(かがわ・ひろし)さんが5日午前、老衰のため神戸市の病院で死去した。99歳。神戸市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。1952年に産経新聞社に入社。サンケイスポーツ(大阪)で編集局長などを歴任し、定年退職後にフリーとなった。日本サッカー発展への功績が認められ、2010年に日本サッカー殿堂入り。15年には国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を日本人で初受賞した。W杯は14年ブラジル大会まで計10度取材した。
2014年W杯ブラジル大会中、FIFAが公式サイトに紹介記事を載せた。当時89歳、最年長の記者として取材する賀川さんの姿は反響を呼び、翌年のFIFA会長賞にもつながった。これが自身最後のW杯取材になった。
49歳だった1974年、初のW杯取材は欧州への「自費出張」。ベッケンバウアー(西ドイツ)とクライフ(オランダ)の名勝負を昨日のことのように話し、古今東西のサッカーを縦横無尽に語った。丁寧な取材と情熱に裏打ちされた記憶力は確かだった。
特攻隊に志願した戦争経験も口にするなど激動の時代を生き、まだ国内では不人気だった球技に光を当て、FIFAの記事では「私はサッカーを通して日本に役立てると思った」と語っている。「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーさん、釜本邦茂さんらを取材。元日本代表監督の岡田武史さんが中学生時にドイツ留学を相談した逸話も有名だ。
神戸市立中央図書館の一室に開設し、数千点の資料を集めた「神戸賀川サッカー文庫」は今年に10周年を迎えるなど、後進への愛情を失わなかった。「日本サッカーはね、みんながよく勉強してちょっとずつ成長して、よくやりましたよ」。その先導役を全うし、100歳の誕生日(12月29日)目前の大往生だった。