元阪神選手「トレード→解雇→病」いつも背中を押してくれたのは妻 最後の仕事はグラウンド整備

 阪神、ダイエー(現ソフトバンク)で活躍し、セ・リーグの審判員も務めた渡真利克則さん(58)は現在、阪神園芸の社員として鳴尾浜球場でグラウンド整備に汗を流している。トレード、解雇、病に倒れてもなお、グラウンドに立ち続けてきた不屈の野球人。その裏には京子夫人の支えがあった。

 グラウンドキーパーとして、11年目。ファームの試合があるときは、午前7時30分に鳴尾浜球場に入り、整備を始める。「選手にケガをさせてはいけないから」。若手の指導にも熱心。時には、ナイターの試合前に甲子園球場に手伝いに行くこともある。

 「野球が好き。現場の空気から離れたくないんですよ」

 1980年、沖縄・興南からドラフト2位で阪神入団。猛虎フィーバーに列島が沸いた85年、リーグ優勝のウイニングボールを一塁手としてつかんだシーンはオールドファンのまぶたに刻みこまれているはずだ。89年には外野手として71試合に出場し、打率.301。だから90年オフ、球団事務所に呼び出されての突然のトレード通告には頭が真っ白になった。退室後、車の中で待っていた京子夫人と甲子園球場の駐車場で数時間、泣き濡れた。

 「小さい子どもを親に預け、2人きりで車中で話し合いました。こんなにタイガースを愛しているのに悔しかった。そんな割りきれない気持ちを切り替えさせてくれたのは妻でした。“野球が好きなんでしょう。だったら福岡で頑張ればいいやん”と、背中を押してくれました」

 選手としての一番の思い出は福岡時代。ほんの一時期とはいえ、自身が3番を打ち、4番・門田博光とクリーンアップを組めたことだ。当時の田淵幸一監督が「阪神時代の渡真利がホームランを放ったビデオを見て獲得を決めた」と聞き、奮い立ったという。

 「期待に応えられなかったのは申し訳ない。でも、クリーンナップを任せてくれたことは一生忘れません。子どももホークスファンになり、ダイエーのあの鷹のジャンパーを着て喜んでいたのも妻の教育が良かったからでしょう。本当に助かりました」

 92年オフに契約解除。次なる道を後押ししてくれたのも京子さんだった。「もういやや。トレード通告、解雇の苦しみは味わいたくない。大阪に帰って、新しい仕事を探せばいいやん」

 幸い、阪神で同期の橘高淳氏が審判員になっていた。当時の山本文男審判部長も「やる気があるなら」と推薦してくれた。13年間の審判生活。中日時代の星野仙一監督から掛けられた言葉が忘れられない。広島駅の新幹線のホーム。わざわざ近寄ってきて「よう頑張ってるな!お前が先頭に立って若い審判を育てろ!」と激励してくれたことだ。

 「星野さんは、あの性格ですから他の審判には“下手くそ”とか“やめちまえ!”とか、怒鳴ることがありましたが、私には一切そんな暴言はありませんでした」

 実際、私もナゴヤ球場の監督室で星野監督から「渡真利はいい審判になる。毅然とした態度が逞しい」と聞き、渡真利さんに伝えたこともある。

 だが、一方で審判員としての日々は重圧との闘いでもあった。2003年9月2日、広島-阪神戦で偏頭痛で倒れ、途中交代。2005年5月には原因不明の体調不良で病院に運ばれ、長期離脱した。さらに2006年4月21日、球審を務めた巨人-阪神戦の試合中に不整脈で心臓発作を起こし、捕手の矢野燿大に覆いかぶさるように倒れて担架で運ばれた。これが審判員として最後の仕事となる。43歳だった。

 「あのことは思い出したくない。勘弁してください」

 その度に京子夫人が、ひたすら献身的に看病してくれた日々は語りたくなかった。忘れ去りたいことだった。

 やがて月日は穏やかに流れ、トレード通告されたあの日の幼子は32歳になり、結婚し、孫も生まれた。沖縄の赤土で育った渡真利少年はもうすぐ還暦。いまは最後の仕事として黒土を友にしている。体が続く限り、この仕事を愛し続けると言う。

(まいどなニュース特約・吉見 健明)

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