【野球】元阪神の守護神・田村勤さん 現役引退後に選んだ道 白衣を着ての17年を回想「プロ野球の思い出を忘れるぐらい長かった」
90年代の阪神でクローザーとして活躍した田村勤さん(60)のプロ野球人生は、故障との闘いでもあった。肩肘の痛みに悩まされ、12年間で現役生活に幕を下ろした左腕は、第二の人生にケガや不調に苦しむ人に寄り添う仕事を選んだ。現在は故郷の静岡にUターンし、JA大井川の茶業部に勤務する田村さんが、兵庫・西宮で整骨院を営み、地域の駆け込み寺を目指した17年間を振り返った。
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阪神を自由契約になりテスト入団したオリックスで、田村さんはプロ野球選手としての最後の登板を迎えた。
2002年10月14日、グリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)での日本ハム戦。プロ入りして初めての先発マウンドが引退の舞台として用意された。先頭打者の森本稀哲選手を三振に仕留めた128キロの直球が、12年のプロ生活を締めくくる、最後の1球だった。
「あの時も、ひどい状態でしたけど」
肩痛を堪えての36歳でのラスト登板を苦笑交じりに回想した。
「枯れるまで野球をやろうと思っていた」という田村さんは、引退後の人生について全く考えていなかった。野球をやりながら、その後を考えることは自分にとって許されることではなかったのだ。
その後、引退のあいさつをした際に駒大時代の恩師である太田誠監督(当時)からかけられた言葉に進むべき道を見いだした。
「おまえはケガで苦労したから、同じ立場の人の気持ちが誰よりも分かる。体をみる仕事はどうだ」
田村さんは整体の勉強を重ね、かつての職場だった甲子園と同じ西宮市内に整骨院を開いた。引退から3年後、40歳での再出発だった。
実直な院長の人柄は、時間をかけて地域の人たちに受け入れられ、院内はアットホームな雰囲気に包まれた。
「駆け込み寺的な場所になればいいと思う」と本人が願っていた通りに、長く通う患者さんからは「家みたい」「保健室のような場所」と言われる存在に。
のちのプロ野球選手も訪れた。阪神の1番打者としてチームをけん引する近本光司選手も、関西学院大時代に「田村整骨院」に通っていた1人だ。
「いろんな患者さんと出会うことができたのがよかったですね。自分はどちらかというと、人見知りだし、そんなにしゃべらない方だけど、あれだけ患者さんがいっぱいいらっしゃると、しゃべらなきゃいけないですしね。一人一人の背景をある程度知っておくべきかなと」
現役時代は、その特殊な役割ゆえか寡黙で気難しい雰囲気を漂わせていた。
「野球に関してはニタニタするなとか、笑うなとか、歯を見せるなとか、帽子深く被れとか、そういう教育をされてきたんで、ヘラヘラはできなかった」
プロ野球のユニホームを脱いで、白衣を着るようになると、生来の気取りのない素顔で、患者さんと言葉のキャッチボールを重ねていった。
「勉強になったと思いますね。何が起きても勉強ですよね」
静岡の実家で1人暮らしをする母を気遣いながらも、夢中になって走り続けていくうちに、17年が経過していた。
「結構、長かったですね。プロ野球が12年ですから。ほとんどプロ野球の思い出を忘れるぐらい、こっちが長かったですからね」
整骨院にはトレーニング用のスペースも取って子どもたちなどへの野球指導も並行して実施。自分が故障が多かったからこそ、伝えられることがあるという信念があった。
そんな場所を閉じることは苦渋の決断ではあった。
「寂しい部分はすごくあったんですけど、それを言ってられなかった。それを理由に(故郷に)帰らないってわけにはいかんだろうって感じだったので」
患者さん個々に言葉を尽くして大事な場所を閉じた田村さんは、静岡で新たな人生を歩んでいる。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇田村勤(たむら・つとむ)1965年8月18日生まれ。静岡県出身。島田高から駒大、本田技研和光を経て90年のドラフト4位で阪神入団。プロ1年目から中継ぎとして50試合に登板、翌年は抑えとしてチームの優勝争いに貢献した。93年には自己最多の22セーブを挙げた。2000年に自由契約となりオリックス入りし、02年に引退。プロ通算287試合に登板、13勝12敗54セーブ。05年から兵庫・西宮で営んでいた「田村整骨院」を22年に閉院。現在は静岡のJA大井川に勤務。





