【野球】引退の瀬戸際からの野手転向「執着心が出てきた」南海のドラ1畠山準さん 身売り報道の日に初安打となるHR
甲子園優勝投手で、南海(ダイエー、現ソフトバンク)にドラフト1位で入団した畠山準さん(61=DeNA球団職員)は、引退の危機に立たされたプロ5年目のオフに、野手転向という大きな決断を下す。翌年には1軍昇格を果たし、プロ初安打をホームランで飾り、華々しく野手としての一歩を踏み出した。挑戦の陰には、現役時代に二刀流として活躍した南海の先輩の存在があった。
◇ ◇
「当然、プロに入った時はピッチャーで入って、ピッチャーで辞めるつもりでいました」
入団時の志を軌道修正せざるを得なかった当時を、畠山さんは振り返った。
投手としての限界を感じ、ユニホームを脱ぐ覚悟を固めつつあった畠山さんだったが、チーム状況が運命を変えた。
「たまたまそのころ野手にケガ人が出ていて、2軍の柴田(猛)監督から野手がいないからバットを振っとけと言われてやってたんです」
シーズン終了後には1軍の杉浦忠監督から「1年だけやってみろ」と正式に野手転向を告げられ、腹を決めた。
「(辞める)踏ん切りはついてたんだけど、もう1年ユニホームを着られるっていうことで執着心が出てきた。ユニホームを脱ぐのは簡単だけど、着続けることは難しい。もう1年チャンスをもらえたと思って切り替えられたんです」
秋季練習から野手としての新たな挑戦が本格化していった。「投手と野手の体は違うんで、ウエートトレーニングをガンガンやりましたね」。肉体改造に着手し、ひたすらバットを振り続けた。選手寮のあった中百舌鳥球場の室内練習場の鍵を預かり、オフも正月も返上した。
転向を支えてくれた先輩の存在も大きかった。
「南海OBの外山(義明)さんという大先輩がいて、ずっと一緒に練習を手伝ってくれたんです。投手もやって、野手もやってる人ですごくかわいがってくれた。バッティングで投げてくれたり、マンツーマンでずっと練習を手伝ってくれたり。外山さんがいなかったら、そこまでできなかったかもしれない」
ヤクルトに投手として入団後、三原脩監督によって投打の二刀流として起用され、71年には「1番投手」として出場したこともある先輩の名前を挙げて感謝した。
転向後初めての1軍昇格は88年7月30日に訪れた。前日には甲子園で行われたウエスタン・リーグの阪神戦で2本塁打。82年に夏の高校野球を制した決勝の広島商戦以来となる甲子園でのアーチが朗報を呼び寄せた。
それでも初ヒットが出るまでは生みの苦しみを味わった。
「なかなか出なかったんですよ。20何打席かかったかな。でも辛抱強く使ってもらって、ナゴヤ球場で初ヒットがホームランだったんです」
8月28日の近鉄戦の九回、石本貴昭投手から左翼ポール際に運んだ一発が、1軍昇格後、25打席目での初ヒットだった。
その日は、南海身売りのニュースが新聞の1面で報じられており、騒然とした雰囲気の中での試合だったが、南海は21長短打で12点を奪う快勝。畠山さんが放ったアーチはとどめの一発でもあった。
覚醒した畠山さんは、同31日のロッテ戦(川崎球場)では、牛島和彦投手から2号2ラン。のちに横浜監督(2005、06年)に就任した牛島さんとは、球団職員として“再会”し、思い出話に花を咲かせた。
「おまえに打たれたんだよ、ってガックリしてましたよ。笑い話ですけどね。抑えでバリバリ投げてる時だから、僕みたいなのに打たれるわけがないのに打たれたことで、逆に印象に残っちゃったのかもしれない」
楽しそうにやりとりを振り返った。
野手1年目の成績は26試合に出場し、3本塁打を含む10安打7打点。
「大した成績じゃなかったですけどね。でもある程度、自信にはなったかもしれないですね」。
投手からの転向を進言した南海首脳陣は、畠山さんの打者としての非凡なるセンスをどこまで見抜いていたのだろうか。
「僕はあんまり分からないけど」と前置きして続けた。
「昔のスカウトの方には、入団した時から冗談半分で『早くピッチャー辞めろ』ってよく言われてましたね。担当スカウトではない方ですけど」
(デイリースポーツ・若林みどり)
畠山準(はたやま・ひとし)1964年6月11日生まれ。徳島県出身。池田高の4番投手で82年の夏の甲子園優勝。同年のドラフト1位で南海入りし、2年目に5勝(12敗)。88年に野手に転向。90年に自由契約となり、91年に大洋にテスト入団。93、94年は外野のレギュラーに。投手として55試合で6勝18敗、防御率4・74。打者として862試合で483安打、57本塁打、240打点、打率・255。球宴に3度出場。投手、野手で規定投球回、規定打席に到達。





