【野球】「もう、しゃあない契約するわ、という感じ」元阪神・ドラ1山村氏の退団後に始まった第二の野球人生
元阪神のドラフト1位で今年からBCリーグ・山梨のGMに就任した山村宏樹氏(49)は抜群の制球力を武器に近鉄、楽天で先発、中継ぎとして活躍した。入団5年目のオフに不本意な形で阪神を退団することになったが、その後、見事に才能を開花させて新たな野球人生をスタートさせた。近鉄に5年、楽天に8年、通算18年間の現役生活を送った山村さんの野球人生を追う。
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「細く長くです」
山村さんは自身の18年に及んだプロ野球人生を、そう表現する。
NPBが公表している調査結果によると、山村さんが引退した2012年当時の選手の平均在籍年数は9・9年。どれだけ長く現役を続行していたかが、よく分かる。
一度は、5年で終わっていたプロ野球人生だった。94年のドラフト1位として大きな期待を背負って阪神に入団。4年目に待望のプロ初勝利をつかんだが、飛躍を目指した5年目のシーズンを前に、不幸なアクシデントに見舞われ、プロ野球人生は暗転した。
突然、めまい、吐き気の症状に苦しめられるようになり、野球どころではない状態に陥った。その年のオフ、自律神経失調症からくる体調不良を理由に戦力外を通告された。当時23歳。プロ野球を諦め山梨の実家に帰っていたが、一本の電話が山村さんの人生を変えた。
同じタイミングで戦力外を受け、近鉄の秋季キャンプ(宮崎・日向市)に参加していた中里鉄也内野手からの電話に出ると、予想もしない展開が待っていた。
「梨田さんが出てきて『ヤマ、元気でやってるか。ウチでやれ』と。そこから小林さんに替わったんです。小林さんも『いいからウチでやれ、できるから』と言ってくれました」
近鉄の新監督として秋季キャンプを迎えていた梨田昌孝監督、小林繁投手コーチだった。2人とも99年シーズンまで2軍監督、2軍バッテリー総合コーチを務めており、ウエスタン・リーグで対戦する山村さんの能力を高く評価。戦力外を受けて一早く獲得に動いたのだった。
引退後について甲府工の恩師や家族と相談していた山村さんは、返事をいったん保留。だが、周りからの後押しを受けて「お世話になります」と決意を告げた。
2月のキャンプに参加して入団テストを受験。29日に合格を勝ち取り、背番号65での再出発が決まった。
ただ、山村さんの獲得に熱心だった現場と、フロントの考えは必ずしも一致していなかったようだ。入団テストで紅白戦に登板し好投していたが、一度は獲得見送りを伝えられていた。
「小林さんから、謝罪の電話がありました。巨人とヤクルトに連絡をするからテストを受けて帰ってくれと。だったら、もういいです、ここまでやっていただいたんで、もう帰りますと伝えました。僕はもう諦めてたんです」
テストに呼んでもらった感謝を伝え、気持ちに区切りをつけた。しかし、事態はまた動いた。
「翌朝、小林さんから俺に全部任せろ、給料も任せろ、契約するからって伝えられました。球団は、もうしゃあない、契約するわ、という感じだったと思います」
球団からは2日間で大阪に拠点を移すよう通達され、宮崎から山梨へ帰り荷物をまとめた。新たな住まいは知人に探してもらった。
紆余曲折を経て、慌ただしく「近鉄・山村」は誕生し、第二の野球人生がスタートした。
「ほんとに、近鉄に救われたんです。梨田さんと小林さんのおかげです」。2人への感謝を山村さんは繰り返した。
そこから近鉄で5年間、楽天で8年間プレーして現役生活にピリオドを打った。「18年もあの世界にいたという実感があまりないんです。周りから何年やったのかと聞かれて18年と言うと、どうやって、何をやってたのって聞かれますね」
今年から地元山梨で独立リーグのGM職に就き活躍の場を広げた山村さん。投球同様の粘り強い、その歩みをたどっていきたい。
(デイリースポーツ・若林みどり)
山村宏樹(やまむら・ひろき)1976年5月2日生まれ。山梨県出身。甲府工から94年のドラフト1位で阪神に入団、98年9月17日の広島戦でプロ初勝利。2000年に近鉄にテスト入団し、同年にオールスター出場。01年には優勝に貢献し、日本シリーズ出場。2004年の分配ドラフトで楽天入りし、12年に引退。プロ在籍は18年で225試合に登板、通算31勝44敗2セーブ、20ホールド。防御率5・01。今年からBCリーグ・山梨のGMを務める。




