【野球】阪神・藤川監督のあわや乱闘の激高ぶりに見た闘争心と明晰な頭脳「賛否両論あっても勝手に言わせとったらええ」元阪神ドラフト1位・的場氏の思い
元阪神で今季から北海道独立リーグ・石狩レッドフェニックスの監督を務めている的場寛一氏(47)が、藤川球児監督(44)が率いる阪神に刺激を受けている。藤川監督がドラフト1位指名を受けた翌年の1999年に、同じドラフト1位として入団したのが的場氏だった。故障に苦しめられた時代をともに過ごすなど親交を深めた2人。的場氏が藤川監督への思いを語った。
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北海道・石狩に拠点を移しても、兵庫・尼崎で生まれ育った生粋の虎党だった的場氏にとって、阪神は気になる存在であり続けている。しかも、今季は藤川監督がチームを率いているだけに思いは強い。
「やっぱり気にして見ますね。この前は関西でキャンプをやってたんで、阪神一色でしたし、テレビで試合を見たりとかもしてましたね」
自身が監督に就任した石狩は5月4日に開幕戦を迎えたが、4月には2週間近く大阪でキャンプを実施しており、熱気を肌で感じていた。
「それこそ、広島戦での球児の乱闘騒ぎもね。あの闘争心に、おっ熱いやん、と思いましたね。闘争心、頭を使うことの両方を兼ね備えているというか」
闘将と呼ばれた、元阪神監督の星野仙一氏をほうふつとさせた4月20日の阪神-広島戦(甲子園)での藤川監督の激高ぶりを頼もしそうに振り返った。
八回1死一、二塁。広島の新人岡本駿の抜け球が、坂本誠志郎捕手の頭部への死球となると、藤川監督はベンチを飛び出し、広島側に“来い”のしぐさで激しい怒りを見せつけた。両軍が本塁付近に集まり一触即発となった一戦は警告試合を宣告された。
「去年、広島からのデッドボールの数が多いから、くぎを刺しとかなアカンというのはあったと思うんですよ。多分、計算してね。ああいうのをひとつやっておけば、ピッチャーは大事な場面でインコースに行ききれなくなったりすると思うんで。そこまで考えてやったことだと思うんです」
昨季、阪神は広島からDeNAと並びリーグ最多15死球を受けている。的場氏は、藤川監督の行動が単に怒りに任せたものではなく、先を見越してのクレバーな行動だったと受け止め、こう続けた。
「賛否両論あっても、勝手に言わせとったらええし、気にせず自分の信じた道を進んでほしい。今の時代でも、熱い気持ちは忘れてはいけないなと、あの姿を見て思いましたね」
1年違いのドラフト1位。藤川監督は2005年に「JFK」の一角を担う存在となりブレークしたが、2軍で苦労した時間は決して短くなかった。的場氏は、右肩痛で苦闘していた藤川監督の姿も見てきている。
鳴尾浜でリハビリ仲間として過ごしていた時代に交わした会話がある。
「年俸1億円か、10年契約の1000万選手のどちらがいいかって話になって、球児は10年契約と言ってましたね。1年でも長く野球をやりたい気持ちと、ひょっとしたら1000万円が5億とかになる可能性もあるからって。ケガ人同士だったんで、1年1億だと一発でクビを切られるかもしれないし、10年猶予を持った方が体作りとか計算できるよねと」
将来への明確なビジョンが描けなかった当時の心情が伝わってくる。
「球児も不安やったと思いますよ。俺らケガ人は今年で最後やな、と冗談で言い合ったりしてました。みんな不安との戦いでしたね」
的場氏自身、故障に苦しめられた現役時代、野球が嫌いになり、1軍の試合を見ること自体が苦痛だった時もある。「タイガースの試合を見たくないという気持ちもあった。こんな選手が試合に出てとか、俺の方がいいのにと思った時もありました」。とがっていた若かりしころを苦笑まじりに懐かしんだ。
藤川監督が誕生した今季、縁あって自身も独立リーグ・石狩の監督を担うことになった。
「レベルとか、規模感は違うんですけど、藤川監督がリーグ優勝した時には、僕らもリーグ優勝、さらにグランドチャンピオンシップで優勝できたらいいなと思いますね」
藤川阪神を大いに刺激として、高い目標に向かって進んでいく決意を示した。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇的場寛一(まとば・かんいち)1977年6月17日生まれ。兵庫県尼崎市出身。弥富高(現愛知黎明)、九州共立大を経て99年のドラフト1位で阪神入団。通算24試合に出場。2005年に戦力外通告を受け、06年からトヨタ自動車でプレー。3度の日本選手権優勝に貢献。12年の引退後、社業に専念し14年に退社。現在は「くつろぎカンパニー株式会社」代表取締役としてエステやアスリート支援などに取り組み、タレント活動も行う。




