【野球】野球少年のあこがれだった高田繁さんの青いグラブ  黒ずんでも5年間使い続けた相棒へのこだわり

グラブについて語る高田繁さん=都内
三塁強襲の打球をを追う巨人・高田繁さん=1977年
三塁手として大活躍していた巨人・高田繁さん、さわやかな笑顔で人気も急上昇=1976年、多摩川グラウンド
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 巨人のV9戦士だった高田繁さん(79)の代名詞は青いグラブだった。プロ野球ファンの話題を呼んだ1976年シーズンの三塁コンバートによって、相棒への注目度も高まった。「カラーグラブを使ったのは僕が日本のプロ野球で一番」。高田さんは胸を張る。野球少年たちをときめかせた青いグラブはどのようにして誕生したのか、その秘密に迫った。

  ◇  ◇

 鮮やかな青いグラブで巨人の三塁を守る高田さんの姿は、またたく間に野球少年たちのあこがれの的となった。

 十文字のウェブに赤カップの刺繍の入った青のライナーバック。内野で躍動する高田さんモデルのグラブを持つことは、少年たちステータスになっていったようだ。

 「ミズノで子供用のグラブを売り出してくれてね、よう買ってくれてね」。相棒について語る高田さんは優しい顔になる。

 カラーグラブを使うきっかけは、1971年にドジャースのキャンプ地、米フロリダ州ベロビーチで行われた巨人の春季キャンプに参加したことだった。

 「僕は3年目だった。フロリダの青い空の下、メジャーの選手がカラーグラブを使っていてね。うわ~きれいだなって。色つきを使っていいんだって。日本では誰も使ったりしてなかったから。これはいいなと思って」

 強烈な日差しが降り注ぐベロビーチで、カラーグラブと出合った時の光景が、高田さんにはありありとよみがえっているようだった。

 「僕は守備でファンの人に注目して見てもらいたいというのがあったから。日本で使ったらグラブに注目して守備も見てもらえるんじゃないかと思って。ちょうどミズノと契約していたので帰ってから、こういう青いグラブを作ってくれと言った」

 高田さんの行動は早かった。

 届けられた青いグラブは「イメージ通りのいい色だった」という。

 「柴田(勲)さんがその前に赤い手袋で売り出したでしょう。僕も青い手袋をしていた。青が元々好きだったんだけど、グラブにそういう発想はなかったからね。僕が青を使って1年ぐらい遅れてからか、柴田さんが赤いグラブを使うようになった」

 外野のグラブは色がくすんでくるとメーカーからの勧めもありシーズン中に変えることもあったという。だが、三塁で使った青いグラブは引退するまで使い続けた。

 「1つで終わった。5年間三塁をやったけど1個だけ」

 それは繊細な感覚を失いたくなかったからにほかならない。

 「しっくりというか、パーンと(打球の勢いを)完全に殺す、ゴロをグラブの中でパチッとつかめるグラブってなかなか簡単にできない」

 自分の左手をグラブに見立てて高田さんは解説を始めた。

 「だから、汚れて腰がなくなってくるんだけど、硬くする除光液みたいなやつを塗って、指がシナッとならないようにしてね。色も、最後は黒くなってきたけど、それをずっと試合で大事に使い続けた。練習の時は他のグラブを使ってね」

 鮮やかな青が黒く変色しても、使うごとに自分の手になじんでいった相棒を変えることはできなかった。

 1980年の引退後、高田さんは三塁コンバートを支えてくれたグラブを、生みの親の元へと返した。

 「坪田さんにくださいって言われてね。飾るところがあるみたいで、ずっと飾っておいてもらった。もう亡くなられてね」

 グラブ作りの名人として知られ、2022年4月に逝去した坪田信義さんへ思いをはせた。

 外野で4年連続、三塁手としても2年連続ダイヤモンドグラブ賞を受賞した高田さん。手元にはなくとも、相棒の感触が消えることはない。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日生まれ、79歳。大阪府出身。右投げ右打ち。外野手、三塁手。浪商高から明大に進み、67年に巨人からドラフト1位で指名され入団。1年目からレギュラーとして活躍し、68年は新人王と日本シリーズMVPに選ばれた。堅守、巧打、俊足でV9に貢献、71年には盗塁王を獲得した。76年には三塁手にコンバートされた。80年に現役を引退し、85年から日本ハムの監督を務めた。退任後は巨人のヘッドコーチなどを歴任、05年に日本ハムのGMに就任。08年からヤクルト監督、11年からはDeNAの初代GMを務めた。

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