【野球】長嶋監督から言い渡されたコンバートに反発「草野球じゃあるまいし」野球人生の岐路に立ったV9戦士高田繁氏 30歳の覚悟の決め方
名左翼手として巨人のV9を支えた高田繁(79)さんは、プロ8年目のオフに野球人生の岐路に立たされた。監督就任1年目を最下位で終えた長嶋茂雄氏から命じられたのは前代未聞の三塁へのコンバート。無謀な指令に高田さんはトレードを直訴するも、却下された。転向を受け入れるのか、拒否するのか。究極の選択を迫られた高田さんは覚悟を決めた。
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長嶋監督から呼び出しを受けたのは、プロ入り最低の成績で終わった1975年の11月だった。
その年は、開幕から調子が上がらず、夏場を迎えた頃には淡口憲治外野手らの台頭によってベンチを温める機会が多くなっていた。シーズン打率は・235。チームも球団創設以来初の最下位に沈んでいた。
高田さんは出直しを期して多摩川グラウンドに通い、打撃練習に取り組む日々を過ごしていた。
「明日、多摩川で練習が終わったら家に寄ってくれと電話がかかってきてね。いよいよ来たな、(自分の)トレードだなと思った。張本さんがトレードで来るって決まっていたからね、レフトとしてね」
日本ハムから張本勲外野手が加入してくるあおりを受けて、自身のトレード話も新聞をにぎわせていた。高田さんは覚悟を決めた。
「(移籍先は)西鉄か広島かどこかだろうと。このままいても試合に出るチャンスはないから、家族には、欲しいって望んでくれるなら、すぐに(行くと)返事をしてくるからと言って家を出た」
だが、長嶋監督から告げられたのは「三塁をやれ」という想定外の転向指令だった。
「浪商から投手と外野でやってきて、内野なんて一度もやったことがなかった。草野球じゃあるまいし、とてもできるとは思わなかった。『欲しいと言ってくれる球団があったら、どこでも行きます、トレードで出してほしい』って言ったけど、『いや、おまえはトレードはない、三塁をやれ』と」
自分の強みは「足と守備」。そう自負してきた。72年に創設されたダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)も4年連続して受賞、球界屈指の外野手と言われていた。ただ、チームの立て直しが急務だった長嶋監督が外野手に求めたのは、守備力ではなく、打力だった。
一晩の熟考の末、高田さんはいばらの道を選んだ。
「できませんって言って外野にこだわれば張本さんの控え。守備固めで出場して2、3年したら現役は終わり。それだったら、三塁をやれって言うなら、それに懸けてみよう、懸けるしかない。そう思った」
三塁手として生きる。気持ちを切り替え、潔く覚悟を決めた。妻は3人目の子供の出産を控えていた。30歳。故障があるわけでも、衰えを感じていたわけでもなかった。
翌日から多摩川には新たな挑戦を開始した高田さんの姿があった。
そんな高田さんをツキも味方した。翌年から本拠地の後楽園球場は全面人工芝への移行が決まっていたのだ。
「アスファルトの上に薄い安物のカーペットを敷いたみたいな人工芝だったんだけど、多摩川にも同じものが敷かれて、そこで練習ができた。毎日、長嶋さん、黒江さんらがノックしてくれて。だから日本で一番早く人工芝に慣れたのは俺なの。年間の試合の半分をそこでやるんだから。どんな名手よりも、俺が一番うまい、うまいというか慣れてるわけや」
高田さんは声を弾ませた。
「本当に、野球人生、ついてたなと思った。人工芝じゃなかったら、三塁としてどうかなあ、うまくいかなかったんじゃないかと思うけど」
逆境からの反抗を懐かしそうに振り返った。
(デイリースポーツ・若林みどり)
高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日生まれ、79歳。大阪府出身。右投げ右打ち。外野手、三塁手。浪商高から明大に進み、67年に巨人からドラフト1位で指名され入団。1年目からレギュラーとして活躍し、68年は新人王と日本シリーズMVPに選ばれた。堅守、巧打、俊足でV9に貢献、71年には盗塁王を獲得した。76年には三塁手にコンバートされた。80年に現役を引退し、85年から日本ハムの監督を務めた。退任後は巨人のヘッドコーチなどを歴任、05年に日本ハムのGMに就任。08年からヤクルト監督、11年からはDeNAの初代GMを務めた。




