【野球】阪急-オリックス一筋46年のプロ野球人生に幕 甲子園V左腕→ドラ1入団「最後、甲子園で日本シリーズ」に感激
取材現場の裏側を描く新企画「スポットライトの裏側」。今回は、今年の2月の春季キャンプを最後に退団するオリックスの用具担当・松本正志氏(64)を取り上げる。1977年には夏の甲子園大会で東洋大姫路の3年生エースとして優勝投手に。阪急では10年間の現役生活を送り、その後1988年から36年間、用具担当としてチームを支えてきた数奇な野球人生に迫る。
阪急で現役生活10年間、阪急、オリックスで36年間用具担当を務めてきた松本氏。「最後、甲子園で日本シリーズをやれたことがすごい巡り合わせだなと思いました」と感慨深げに話す。
注目を集めたのは高校時代だ。1977年の夏の甲子園。東洋大姫路の3年生エースとして、5試合に先発して5勝0敗。決勝戦は東邦と激突し「バンビ」の愛称で人気を博した1年生投手の坂本佳一と投げ合った。延長十回の死闘の末、松本氏とバッテリーを組んだ安井浩二のサヨナラ3ランで栄冠をつかんだ。
阪急にはドラフト1位で入団。1年目の78年には6試合に登板し、日本シリーズのマウンドにも立った。3勝3敗で迎えたヤクルトとの第7戦。1点ビハインドの六回にヤクルト・大杉の後楽園球場左翼ポール際への本塁打判定を巡り、阪急側が猛抗議。マウンドに立っていたのは足立だったが、抗議開始10分後に「次、松本で行くぞ」と声がかかったという。
「1時間以上、心臓もばくばくでした」。足立の後を受けてマウンドに上がると、マニエルに本塁打を許した。チームも日本一を逃し、悔しい思いをしたが「一番の思い出」と懐かしむ。元々、直球しかなかった松本氏は2年目以降からカーブを覚えようとしたが、そこでフォームを崩し最終的には球速も落ちた。6、7年目の頃に球団から打撃投手兼務の選手を提案され、8年目以降は打撃投手メインとなった。
これが、現役生活後の用具担当人生につながる。主な仕事はウエアの発注などだったが、なりたての頃はキャンプ地のマウンド作りやプレハブ作りもしていたという。それでもプロ野球に携われる日々がうれしかった。90年代は若手選手が荷物を搬入しており、若かりし頃のイチローもしていたそう。「イチローに『ノックバット持っていって』とかね(笑)。彼は人気が出てきてもそういうのをちゃんとやっていたよ」と思い返す。
オリックスは21年からリーグ3連覇中。日本シリーズで東京ドーム、神宮、甲子園と野球の聖地に用具担当として立てたことが何よりもうれしかったという。「去年、甲子園でできたら最高だなと思っていたんです。持っていますね。何年もプロ野球にいたというね、それを証明できる自作の写真集を作っていたんです」。セ、パ・リーグ篇に分け、各球場のマウンドに立った自身の写真を、プロ野球現場で働いていた証しとして残した。
V旅行も最高の思い出となった。昨年は球団に許可をもらい、娘や孫も同行。阪急時代の1984年に新婚だった妻を連れて優勝旅行に行けたことも忘れない。甲子園で輝かしい実績を誇り、長年プロ野球の世界にいた松本氏。「選手が勝った時にヒーローインタビューでもおもしろいこと言うので、それを楽しみに過ごしたいなという感じですね」とこれからは一人のファンとしてオリックスを見守っていく。(デイリースポーツ・オリックス担当 関谷文哉)
◆松本 正志(まつもと・しょうじ)1959年4月2日生まれ、64歳。兵庫県出身。現役時代は左投げ左打ちの投手。76年のセンバツでベスト4。翌年の選手権では3完封などの活躍で日本一に。同年オフのドラフト1位で阪急に指名される。実働10年で32試合に登板し、1勝3敗、防御率6・83。引退後の88年から打撃投手、用具担当などを務める。
【松本さんの高校野球時代】
◆1976年 第48回センバツ大会に出場
2年生エースとして3試合に登板。先発した1回戦・県岐阜商戦は0回1/3を投げ3失点(自責1)でKO。準々決勝・智弁学園戦は9回4安打3失点で完投勝利。準決勝の小山戦では9回4安打1失点で敗戦投手。
◆1977年 第59回夏の甲子園大会優勝
3年生エースとして5試合に先発し5勝0敗、防御率0・38の好成績。2回戦・千葉商戦に完封し、3回戦は浜田戦でも9回無失点投球。準々決勝・豊見城戦では9回8安打3失点(自責1)、準決勝・今治西戦は10回完封勝利を挙げた。決勝・東邦戦は10回10安打1失点、162球の熱投でチームはサヨナラ勝ちで優勝。1952年の県芦屋以来、25年ぶりに兵庫県に深紅の大旗を持ち帰った。





