【野球】激戦地沖縄からパスポートを持って被爆地広島へ 安仁屋宗八が見た沖縄本土復帰50年

 沖縄本土復帰の1972年5月15日に根本陸夫監督(右端)をはじめカープナインから祝福される安仁屋さん(左)
オープンカーに乗って甲子園がいせんパレード。右が安仁屋さん
 沖縄本土復帰について語る安仁屋さん
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 沖縄が日本復帰をして今年で50年を迎えた。今では各分野で沖縄出身者が活躍する。そんな中、スポーツ界でパイオニア的存在のプロ野球広島、阪神で通算119勝を挙げた安仁屋宗八さん(77)=デイリースポーツ野球評論家=が見た本土復帰50年をお届けする。

  ◇  ◇

 大波を受ければすぐに転覆してしまいそうな「ぽんぽん蒸気船」が、家族12人を乗せて暗い海を駆けた。

 戦火が激しくなる沖縄から九州へ、決死の疎開だった。

 米軍に見つかれば襲撃されるかもしれない。航海は夜に限られた。漁師である父の勘と、方角を教える星空だけが頼りだった。

 船の上、母の胸に抱かれた生後2カ月の乳飲み子は、数々の危機を乗り越え、のちに沖縄県人として、プロ野球で初めて勝利を挙げるパイオニアになる。

 安仁屋宗八。見えない力に導かれるようにして歩んできた77歳の、“不思議な人生”をのぞいてみる。

 安仁屋は今、広島にいる。目が大きく彫りの深い顔立ちが印象的だ。

 かつて広島東洋カープの投手として活躍した。通称ハチ。80歳を目の前に、いまやハチと気安く呼ぶ人は、ほとんどいなくなった。

 白髪に白いひげ。カープが地元で試合をする日は必ずマツダスタジアムへ足を運び、あり余るカープ愛で後輩を励ます。

 その安仁屋にとって特別な日がある。

 5月15日だ。

 戦後、長く続いた米国による沖縄統治が終わり、施政権が日本に返還された日。今年は1972年の本土復帰から50年の大きな節目にあたる。

 「もう50年たったんかって…ホント、すごく早く感じるね」

 そうつぶやくと、安仁屋はありがたそうな顔をして続けた。

 「こうやって自分の人生を振り返ると、家族にも恵まれて幸せな生活を送ることができたと思う。実を言うと、プロ野球は1年で辞めて沖縄に帰るつもりだった。なのに今でも広島にいるのは、地元の人たちと縁があったからでしょう」

 安仁屋は1944年8月17日、那覇の垣花(かきのはな)で漁師の父宗英、糸満出身の母ミツの間に8人きょうだいの6男として誕生した。8番目に生まれたから「宗八」と名付けられた。

 このころ太平洋戦争は激しさを増し、島から船で九州各地を目指す人も少なくなかった。だが、その航海は危険に満ち、学童疎開のために九州へ向かっていた対馬丸が、米軍潜水艦の攻撃を受けて沈没。多くの犠牲者を出す悲劇も生んでいた。

 間近に迫る戦火。父・宗英は家族を守るため、ついに船を使って沖縄から脱出する決断をした。安仁屋は語る。

 「0歳の時だから記憶はもちろんないが、父や兄からその時の話をよく聞かされた。家族10人と親戚2人を乗せての航海は命からがらで、半端ではない思いをしたということだった」

 宗英が用意したポンポン蒸気船に20歳近い長兄の宗一、次男宗全、三男宗分、四男宗次郎、長女豊子、五男宗太郎、次女美代子、母ミツに背負われた生後2カ月の宗八と親戚2人が乗り込んだ。

 昼は敵機に発見されないよう島陰や洞窟に隠れた。宗英の漁師としての経験と勘、操縦がすべてだった。

 九州を目がけて出航し、何日もかけてたどり着いたのは大分だったが、海を渡り終えても恐怖は続いた。安仁屋一家が身を寄せていた場所は、本土空襲の経路にあったからだ。

 宗英が買い出しに出かけていたある日のこと。突然、空襲警報が鳴り、家族は大急ぎで避難した。次の瞬間だった。

 ドーン!という爆弾の炸裂音と同時に土煙が舞った。全員身を伏せて無事だったが、宗八だけがいない。爆風で吹き飛ばされていたのだ。防空壕が崩れ、一面土砂で埋まっていた。家族は土を掘り返し、必死で探した。

 発見したのはミツだった。宗八は次女美代子の赤い服を着せられ、その服の一部が土の中から顔をのぞかせていた。

 後年、安仁屋はその話を何度も聞かされ、「目立つ色の赤でよかった。それにしても、みんなが死なずに沖縄に帰ることができたなんて、奇跡みたいな話だ」と振り返る。

 米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、同年4月1日には沖縄本島に上陸。国内唯一の地上戦がこの地で展開され、民間人を含む多くの犠牲者を出した。

 戦後しばらくして、家族は再びポンポン蒸気船で沖縄に戻った。その沖縄はすでに米国の統治下に置かれ、故郷の様子は大きく変わっていた。生活の糧を得ていた漁港は軍港と化し、一家は垣花からの移転を強いられた。

 通貨も日本の円ではなくB円(B型軍票)が使用され、しばらくしてドルになった。

 「ドルに変わったのは中2(1958年)の時だったけど、ドルは高価だというイメージがあって使いづらかった」

 安仁屋が野球に親しみ始めたのは4、5歳のころ。野球が好きな五男宗太郎の後を追いかけ、原っぱまでついて行くようになった。

 「打って守るだけの野球」で、いつも外野のさらに後ろで球拾いばかりしていたが、それでも楽しかった。

 沖縄の各地には戦闘の傷跡が生々しく残り、野球少年たちは瓦礫の中から使えそうな木材を見つけ、削ってバットにした。グラブは小麦粉が入っていた袋を材料にして作った。

 野球をしていないときはガジュマルの木に登り、蔓にしがみついてターザンのマネをした。ごく普通の自然児だった。

 「いま思えば結構、危険なことをしていたね。でも、僕は人を殴ったことはないし、逆に殴られたこともなかった。人に迷惑をかけた記憶はない」

 人様に迷惑をかけない。これは今も変わらない安仁屋の美徳のひとつだ。

 安仁屋が中学2年の夏、沖縄がビッグニュースに沸いた。首里高校が第40回全国高校野球選手権大会に出場。記念大会による“1県1代表”の恩恵もあり戦前、戦後を通じて沖縄勢として初めて甲子園の土を踏んだ。

 しかし、沖縄が米国の一地域という性質上、選手たちが甲子園に乗り込むにはパスポートが必要だった。

 沖縄では本土への復帰運動が高まりつつあったころで、首里高校の本大会出場は「1日日本復帰」とも言われた。

 当時の安仁屋は「遊びながら」野球を「楽しんでいた」という。プロ野球の巨人に関心があり、藤田元司の美しい投球フォームに憧れた。

 「あのころの沖縄には巨人しかなかったからね。新聞は巨人を大きく取り上げているし、野球雑誌もそうだった。月に1、2度、テレビで録画放送される巨人戦が、なによりの楽しみだった」

 自身の実感では当時、テレビは30世帯から50世帯に1台しかなかったという。幸運にも隣家が裕福な家庭で巨人戦になると、いそいそと出かけていって観戦した。

 沖縄高校に入学した1960年春、那覇高校が第32回選抜高校野球大会に出場し、沖縄の高校野球熱は沸騰していた。

 野球部には110人の1年生が入部した。創立4年目を迎えていた学校はチーム強化に本腰を入れ、「3年計画」を立てて甲子園を目指すことになった。

 外部からコーチを招き徹底的に鍛え上げた。根性を植え付けるために走る。300球の投げ込みを命じる。暗くなるとまた走る。校外へ出て20キロ。

 陸軍中尉としてニューギニア戦線に従軍していた鬼コーチの指導は筋金入り。練習というより鍛錬だった。

 わずかな楽しみもあった。日が落ちてからの走り込みではサトウキビやトマト、キュウリを失敬して水分を補給し、畑から掘り出したイモをワラで焼いて食べた。

 「親戚の顔も見ず、祝い事にも出ずに頑張った」

 気がついたら110人いた同級生は9人になっていた。

 学校の意思をよそに、「プロ野球どころか甲子園の“この字”も考えたことがなかった」安仁屋だったが、3年夏、高校球児の夢舞台である甲子園球場のマウンドに立っている。

 厳しい練習に耐えて沖縄の強敵を打ち破り、九州勢の分厚い壁も崩してつかんだ本土への切符。その初戦の対戦相手は広島県代表の広陵高校だった。

 1962年8月13日。

 激戦地の沖縄と、原子爆弾が投下された被爆地の広島。「ノーモア同士」の対戦は野球とは違う視点でも注目された。

 広陵高校には被爆者も多く、爆風で両耳の鼓膜を失っている選手もいた。それでも優勝候補に名前が挙がるほど、広陵の下馬評は高かった。

 結果は4-6の惜敗。安仁屋の最後の夏が終わった。本大会の壁は、予選を勝ち上がる最後の関門となった南九州大会より遙かに厚かった。

 実はこの球児にとっての晴れ舞台を前に、安仁屋たちは当時の沖縄代表ならではの出来事を体験している。

 夏は首里高校以来、4年ぶりとなる沖縄勢の甲子園。わき上がる本土復帰熱を背景に、ナインの宿泊先だった兵庫県西宮市の「千歳旅館」には多くの報道陣が集結。連日、すさまじい取材攻勢がかけられた。

 テレビ局に呼ばれたこともあれば、梅田コマ劇場でお笑いの舞台に立ったことも。

 「俳優の藤田まことさんから招待を受けてね。てなもんや三度笠があるからおいでよって。それで壇上に上がって紹介されたんですよ。学校として部長がOKを出し、監督も”招待なら喜んで行こう”と」

 沖縄が本土の関心を呼んでいる-。

 それはそれでうれしかったが、周囲の盛り上がりは尋常ではなかった。

 “沖縄狂騒曲”は地元へ戻っても続いた。まるで凱旋したかのように那覇の国際通りでパレードが用意され、ナインはオープンカーとトラックに分乗して行進した。

 当時の沖縄の最高権力者で、米国民政府トップの高等弁務官ポール・キャラウェイにも挨拶に出向いた。広陵との試合を前に激励電報をもらっていたからだ。すべてが規格外だった。

 安仁屋はその後、五男宗太郎と同じ社会人野球の琉球煙草に進み、都市対抗野球に大分鉄道管理局の補強選手として出場。沖縄人で初めて後楽園球場(現東京ドーム)のマウンドを踏んだ。

 この時の活躍が自由競争下で動いていたプロ野球スカウトの目に留まり、東映、西鉄、中日、大毎、広島の5球団による争奪戦の末、広島に入団した。

 入団の決め手となったのは“パスポート”だった。

 広島のスカウトは選手兼任のフィーバー平山智だった。米国カリフォルニア州出身の日系2世で、すでにパスポートを所有。他球団のスカウトにはないアドバンテージを生かし、早くから沖縄の実家を訪問して父宗英にカープへの入団を勧めていた。

 宗英の胸に、この平山が操る片言の日本語がしみた。誠実な態度からは実直な人柄が伝わってくる。

 米国から来日し、慣れない生活に苦労しながらプレーしている平山の姿に、宗英は沖縄から本土に送り出すことになりそうな息子を重ね合わせた。

 この60年近い昔の“出会い”を安仁屋は鮮明に覚えている。

 「平山さんには感謝しかない。僕はそもそもプロに入りたくなかった。言葉のカベと食事の問題があったから。でも『絶対に私が最後まで面倒を見る』と言ってくれた。僕と同じような言葉遣いで親しみを感じたのもある」

 戦時下に沖縄で生まれた安仁屋がその後、引き寄せられるように被爆地・広島へ。

 これは偶然なのか運命なのか。

 高校時代から沖縄の期待を一身に受け、プロ野球の世界で羽ばたこうとする安仁屋は、まさに希望の星だった。

 そして訪れた、1964年6月14日。舞台は広島市民球場だった。当時は珍しくなかった、ダブルヘッダーの2戦目。相手は、巨人だった。

 沖縄の家々では、だれもがラジオにかじりつき、那覇の国際通りにある電器店の店頭ラジオの前では、大勢の人が声援を送った。

 那覇の実家には親戚一同が集まり声をからした。

 沖縄出身者初となる、プロ野球での勝利--。

 琉球新報はこの日の実家の様子を写真とともに、「親類もいっぱいつめかけてハチの勝利にわく安仁屋投手の家族」と伝えた。地元紙も親しみを込めて、「ハチ」と呼んだ。

 以来、スリークオーターからのシュートを武器に、移籍した阪神タイガースでの成績を含めプロ通算119勝22セーブ。大の巨人ファンは希代の巨人キラーとして抜群の存在感を発揮し、球史にその名を刻んだ。

 好きな巨人に牙をむいたのには理由があった。パスポートが簡単に入手できなかった返還前。巨人戦に限られた数少ない野球中継で、自分が活躍する姿を母に見せて安心させたかったからだ。

 広島入団時の安仁屋は176センチで58キロ。当時の白石勝巳監督が「これで野球ができるのかい?」と驚くほど線が細かった。

 もっと心配だったのは言葉、食事、習慣の違いだ。外国へ来たかのような環境の激変に戸惑う19歳の青年。球団が一時的な措置として、父親の“合宿所同伴入寮”を認めるほどだった。

 晩年はジョー・ルーツとドン・ブレーザーの大リーグ出身監督に引導を渡された。若手への切り替えが理由だった。

 拾ってくれたのは「新人時代から弟のようにかわいがってもらった」という古葉竹識。広島から阪神へ移り、現役最後を愛着のある広島で迎えることができた。

 沖縄が本土復帰を果たした1972年5月15日。安仁屋はデイリースポーツの取材に対して、こう答えている。

 「これで名実ともに日本人になったのだから、うれしいことは確かです。(中略)1日も早く本土並みの平和な沖縄がやってくることを願いたい」

 この50年の間に道路、港湾、空港、通信などの社会インフラが整備され、生活環境は大きく変わった。

 高校野球のレベルも格段に上がった。母校の沖縄高校(現沖縄尚学)が沖縄勢として初めて甲子園大会で優勝し、興南高校は春夏連覇の快挙を達成した。

 また、安仁屋を追いかけるようにして多くのプロ野球選手が誕生した。西武・山川、オリックス・宮城、ソフトバンク・東浜、又吉、巨人・大城らが続き、途切れることがない。

 沖縄セルラースタジアム那覇に野球資料館がある。館内の展示物から沖縄野球の歴史を知ることができ、そこでは草分け的存在だった安仁屋のユニホームも飾られている。

 2018年の第100回全国高校野球選手権大会で、来賓として招待された安仁屋は終戦の日の始球式に登板。平和を希求する白球がその右手から放たれた。

 沖縄からのプロ野球選手第1号は1951、52年に東急(現日本ハム)に在籍した金城政夫投手で、通算0勝1敗という記録がある。

 安仁屋は第2号だ。しかし、残した功績は大きく、同時に負うべき責任や役割も感じている。

 現在、スポーツの世界や芸能界で多くの沖縄出身者が活躍しているが、安仁屋はこう思っている。

 「沖縄出身でスポーツ界一番の功労者はボクシングの具志堅用高さんだと思いますよ。沖縄言葉に人間味が出てるし、彼のお陰。野球では豊見城や沖縄水産で監督をされた栽弘義さんが功労者。そこから今の若い人たちへつながっていったからね」

 安仁屋自身も開拓者の一人に違いないが、自らそれを誇ることはしない。

 ただ自分だからこそ語れることは、後進にもできるだけ伝えていきたい。

 安仁屋と連れ添う5歳下の美和子夫人は、広島生まれの被爆二世だ。

 94歳になる美和子の母・芳枝は、広島の爆心地から1・5キロほど離れた赤十字病院の看護寮で被爆した。

 爆風で吹き飛ばされたときに浴びたガラスの破片は、70年以上経過した今も体内から出てくることがある。

 これが戦争にさらされた人間の姿だ。

 被爆者として生きてきた芳枝は、ウクライナで起きている悲惨な現実を直視できずにいるという。

 安仁屋は、そんな義母の思いを代弁する。

 「“ばあちゃん”は戦争を経験しているからね。あの当時のことを思い出すから絶対に見たくないと。ビルが倒れているニュースがあると“広島もそうやったんよ”って。僕もすぐにチャンネルを変える」

 争いごとを極端に嫌う安仁屋の声が一段と高くなった。

 安仁屋は広島に“第二のふるさと”以上の愛着をもっている。「もう半世紀以上も暮らしているから」沖縄言葉と広島言葉がごちゃ混ぜになり、今ではイントネーションも怪しい。

 美和子夫人が回想する。

 「主人は地上戦が行われた沖縄と被爆地の広島の両方を経験している人ですから、不思議な縁を感じます。よほど広島と縁のある人なんだなあと」

 「これで名実ともに日本人になった」としみじみ語ったあの日から50年。

 沖縄で生まれ、広島に暮らす安仁屋は今、あらためて「平和の尊さ」をかみしめ、「生きていることに感謝している」という。(デイリースポーツ・宮田匡二)

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