プロの背番号「1」投手に注目 鈴木啓示や斎藤佑樹、松井裕樹まで

 背番号「1」といえば、高校野球ではエースの背番号だ。プロでは日本ハム・新庄剛志ビッグボスが付けることになり「譲りたい選手が出てくれば」の期間限定だが、現役時代と同じ背番号に心を躍らせるファンも多いだろう。

 ソフトバンクのドラフト1位・風間球打投手も「1」をもらった。ノースアジア大明桜でもエース番号を背負った。中京大中京のエースだった日本ハムのドラフト5位・畔柳亨丞投手は「46」だが、将来的に新庄監督の背番号「1」の継承に立候補している。

 プロではエースの称号として「18」「21」などが挙げられ、「1」は新庄監督のほか王貞治ら、野手も多い。これまでの「1」を背負ったプロ野球の主な投手をたどってみた。

 古くは1936年、春季開幕投手を務めた阪急・宮武三郎が背負った。実働3年で24試合、10勝7敗。防御率3・78。65年に殿堂入りした。

 36年は名古屋・丹羽淑雄も「1」。投手登録だったが公式戦登板はなく、代走のみ1度出場だった。中日に球団名を変更した47年からは大沢紀三男が背負った。48年に12試合、1勝1敗。防御率3・15の成績を残した。

 88~91年は近藤真一。4年間で34試合8勝12敗だった。ルーキーイヤーの87年に巨人戦でノーヒットノーランをやってのけたが、この時は背番号「13」。92年からは再び13に戻した。

 ライオン(後の松竹ロビンス)では37年秋から40年に近藤久が「1」を付け、3年半で139試合22勝56敗。

 阪神では、大阪時代の50、51年に梶岡忠義が「1」を付けた。2年間で64試合25勝16敗の成績を残した。「3」に替えた52年には最優秀防御率のタイトルを獲得。54~57年は西尾慈高が背負い、4年間で59試合4勝7敗だった。

 近年では野田浩二が88~90年に付けた。3年間で122試合19勝29敗7セーブ。91年からは「18」に変更し、93年に最多勝、ゴールデングラブを受賞した。95~2000年は中込伸が背負い、6年間で97試合20勝34敗2セーブ。01~03年は谷中真二が付け、3年間で95試合15勝14敗だった。

 近鉄では66~85年に絶対的エース・鈴木啓示が背負った。1年目から10勝を挙げるなど、実働20年間で317勝238敗2セーブ。防御率3・11。最高勝率(75年)、最優秀防御率(78年)、最多勝(69、77、78年)、最多奪三振(67~72、74、78年)など輝かしい成績を残した。近鉄の「1」は永久欠番となった。

 ロッテ・愛甲猛も81~83年に「1」で投手だった。横浜高校時代も付けたエース番号。しかしプロでは投手として3年間で61試合0勝2敗、防御率6・70。野手転向後に花開き、89年にゴールデングラブ受賞など主力となった。

 日本ハム・斎藤佑樹は17~21年に、夏の甲子園を制した早稲田実時代や、早大時代でも一時期付けていた「1」に変更。しかしケガに泣かされて5年間で21試合1勝6敗に終わり、21年限りで引退した。

 楽天・松井裕樹は14年の入団時から、桐光学園でおなじみだった「1」を付けている。実働8年で389試合22勝40敗165セーブ、防御率2・53で19年にセーブ王に輝くなど、抑えのエースとしての地位を確立している。(デイリースポーツ記録室)

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