【野球】しのぶ会でおもいを馳せる、野村さん、古葉さんの“兄弟愛”
昨年2月にこの世を去った野村克也さんをしのぶ会が11日、東京・神宮球場で行われた。野村ヤクルト初優勝時の担当記者だった私も一般の方に混じり、献花させていただいた。「どうせ俺は嫌われ者」と自嘲気味に語っていたが、列に並ぶ数をみて、ファンから愛されていたことを実感した。
球場内にある献花台などに並べられた写真を眺めているうちに、野村さんとやはり先日亡くなった古葉竹識さんがお互いに、相手の話をしていたことを思い出した。私は古葉さんが広島の監督を勇退した1985年に担当記者をしていた。その縁で、その後も何かと取材に応じてもらっていた。取材中、古葉さんはよく野村さんのことを「お兄ちゃん」と呼んでいた。確かに1936年生まれの古葉さんに対し、野村さんはひとつ上の1935年生まれである。年齢的に「お兄ちゃん」と呼ぶことに違和感はない。だが、実はそれ以上の関係性があったことを知らされた。
古葉さんは74年のシーズン途中に故ジョー・ルーツ監督からチームをひきつぎ、赤ヘル黄金期を築き上げた。その古葉野球の原点のひとつが「野村野球にある」と話していたからだ。古葉さんは70年に広島から、野村さんが兼任監督を務める南海(現ソフトバンク)にトレードされ、2年間プレーした後に引退。71年には2軍守備・走塁コーチ、72年に1軍の守備・走塁コーチとなり、今でいう「野村ID野球」の基礎を選手、コーチとしてたたき込まれていた。
古葉さんは74年に、大学の先輩である故森永勝也さんが広島の監督になったこともあり、1軍守備コーチとして広島に復帰した。野村さんはこの時に「まだまだ、コーチとして支えてほしい」と強く慰留したが、最終的に折れたという話をしてくれた。
古葉さんも当時のことを「いろいろと野球について勉強させてもらった。四六時中、野球のことを考えている人だった」を振り返っていた。そして「あの人は僕のお兄ちゃん」と何度も話していたことを覚えている。
野村克也が亡くなる数年前のことだろうか。取材の際に「そういえば古葉さんが『野村さんは僕のお兄ちゃん』といってましたよ」と水を向けたことがある。そのとき「古葉はそんなことを言ってたのか」と照れ笑いを浮かべた、野村さんの表情が忘れられない。
野村さんはプロ野球の監督として南海、ヤクルト、阪神、楽天を指揮して、その“遺伝子”を数多く残した。だが、実際はそれだけではない。古葉さんが作りあげた赤ヘル軍団、そしてその後、ユニホームを着た大洋(現DeNA)にもそれは脈々と受け継がれている。ある意味、古葉大洋でプレーし、後に中日の監督となった谷繁元信もその遺伝子を受け継いでいるといっていい。
“兄弟愛”といったら大げさかもしれない。だが、野村ID野球、そしてそれを原点とする古葉野球の“兄弟愛”が、球界に残した功績は大きいと思う。=敬称略=(デイリースポーツ・今野良彦)
