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【野球】「津田恒美の息子」が嫌だった!父の功績への反発を乗り越え記念館設立

 プロ野球・広島東洋カープの1980年代黄金期に「弱気は最大の敵」を座右の銘に剛球勝負を挑んだ右腕がいた。「炎のストッパー」として86年セ・リーグ優勝の胴上げ投手も務めた津田恒美(登録名・恒実)さんは93年7月20日、脳腫瘍のため32歳の若さでこの世を去った。当時4歳だった長男・大毅さんは今年5月末、広島市内に「津田恒美記念館」をオープン。偉大な父に反発を感じたこともあったが、今は父の功績を残そうと館長として奮闘している。

 「ハラハラしながら見守っていたのですが、最初に想像していた以上のものができました。理想的な場所ですし。ファンの方に野球を見にいくついでに寄ってもらえますから」

 津田さんの妻・晃代さんは、津田さんの命日である7月20日、広島駅からマツダスタジアムに向かう途中にある「津田恒美記念館」に併設されているカフェで笑顔を見せた。

 長男・大毅さんから記念館設立の話を聞いたのは、カープが25年ぶりに優勝した2016年だった。

 「主人のイベントに行くのも嫌がっていたのに、考え方が180度変わるんですから不思議ですね」

 息子の心変わりに驚くとともに、父の功績を残そうとする姿に喜びもあった。

 津田さんは、気迫あふれるピッチングでカープファンのハートをわしづかみにした伝説の投手だ。1981年ドラフト1位でカープに入団。82年に11勝を挙げ球団史上初の新人王を獲得した。右肩痛や右手中指の血行障害に苦しみ86年から先発からリリーフに転向し、150キロを超える直球で勝負した。

 特にリリーフに転向した86年は、数々の伝説を残した。

 同年5月8日の阪神戦(甲子園)、4-4で迎えた九回2死満塁のピンチで前年に三冠王を獲得したバースに対し、3球連続直球勝負で空振り三振を奪った。バースは「津田のストレートはクレージーだ」と言った。

 また、9月24日には、優勝を争う巨人戦(後楽園)で原辰徳(現巨人監督)と九回2死一塁で対戦。この日本塁打を放っていた原が、津田さんの直球をフルスイングでファウル。顔をしかめた原は、左手有鉤骨を骨折した。

 そして優勝が決まった10月12日のヤクルト戦(神宮)では九回にマウンドに上がり、胴上げ投手となった。津田恒美記念館の入り口には捕手の達川と抱き合う写真が飾られている。

 優勝決定試合の先発はエース北別府学だった。当時の投手コーチ・安仁屋宗八は「北別府はマウンドに交代を告げに行っても後ろを向いて代わろうとしないピッチャーだった。自分より力のないピッチャーだったら代わろうとしない」と言った。エースは故障から復活を果たした津田さんの功績に納得して胴上げ投手を譲ったのだ。

 この年、4勝6敗22セーブの成績を残し、カムバック賞を受賞。「炎のストッパー」としての地位を確立した。

 86年に10勝を挙げ新人王を獲得した長冨浩志は「普段は明るくて、めちゃめちゃさっぱりとした人。親しみやすかったよね。野球に関してはスイッチが入る人で、同じ速球派ということもあって自分にもライバル意識を持つようなところもあった」と振り返った。

 安仁屋も「ブルペンでかき氷を食べたり、バットをクラブにしてゴルフのまねごとをしたりしてよう遊んでいた。出番が近づくと気持ちがグッと入っていた」と、マウンドでの闘志あふれる姿とは対照的な面もあったようだ。

 87年オフに晃代さんと結婚。翌年には大毅さんが誕生した。私生活も充実し、89年には当時の日本記録である12試合連続セーブポイントを挙げるなど12勝5敗28セーブで最優秀救援投手のタイトルも獲得した。

 しかし、90年は故障に悩まされ、復活を期した91年に脳腫瘍であることが発覚。2年3カ月の闘病生活の末、93年7月20日、32歳の若さで太く短い人生を終えた。この日はオールスター第1戦が行われ、テレビのテロップでも津田さんの逝去が速報で報じられた。

 病に倒れた91年は山本浩二監督のもと「津田を優勝旅行に連れて行こう」とチームが団結。リーグ優勝を成し遂げた。

 伝説の投手としてカープファンのみならず野球ファンの記憶に残る投手だったが、4歳だった大毅さんには父の記憶がほとんどない。

 「病院にお見舞いに行っていたのを、ぼんやり覚えていることくらいですかね。あとは一緒に寝ていたとき『母がいない』というと、父に『もう少し寝よう』と言われながら大泣きして外に飛び出したことですかね」

 92年、津田さんは奇跡の回復を見せ福岡市内で、親子3人で暮らしていた。ある朝、近所のそうじに出掛けていた晃代さんの姿がないことに気づいた大毅さんが父と交わした会話を今でも覚えているという。

 津田さんが死後、熊本で母との生活がはじまった。小学3年生で野球をはじめ、中学から寮生活。高校は甲子園にも出場している九州学院に進学し、野球部に入った。

 「津田の息子」は話題になる。マスコミからの取材依頼も入っていた。

 しかし、晃代さんは「監督さんにもお願いして取材は全て断ってもらっていたんです」と、息子を守った。

 「自分は自分。父と比較されることが嫌だった。思春期というのもあったかもしれません」

2007年、九州国際大に進学。翌年、東京国際大の監督に津田さんの恩師の一人でもある入団当時のカープ監督でもあった古葉竹識が就任したのを機に、同大へ編入し野球部に入った。

 「大学生になったので、取材などは本人に任せました」

 晃代さんは、大毅さんの意思に任せた。古葉監督が「津田の息子」を指導することは、注目を浴びた。マスコミから注目されながら大学時代は故障もあり、満足のいく結果は出せなかった、

 古葉監督の指導を受けるのは父のおかげでもある一方で、常に「津田の息子」の看板を背負っていることに、ますます父への反発は大きくなった。

 晃代さんもそのことには気づいていた。

 しかし、古葉監督にカープを応援する人たちを紹介され、今でも父のファンがいることを知った。

 「父の実家やお墓がある山口まで足を運ばれたという方もいました。球場に行くと父のレプリカユニホームを着ている人がいました。『津田の息子』にしかできないことはないかと考えたんです」

 導き出した答えは「津田恒美記念館」の設立だった。

 2016年カープが優勝した年に準備をはじめた。インターネットで資金を募るクラウドファンディングを17年6月に開始。同時に大毅さんは自転車での日本一周の旅に出掛けた。 

 「目的は4つ。記念館のPR、父がお世話になった人たちにお礼を言うこと、自分がやりたかったということ、そして自信を持つため。野球でも仕事でも中途半端というか、津田恒美の息子というのがすごく嫌で、結果を残していないというコンプレックスがあった。人がやらないこと、それが日本一周だった」

 半年をかけ日本一周するうちに父の偉大さをあらためて感じた。

 「みなさんにお礼を言わないといけないのに、逆に父から勇気をもらったとお礼を言ってくれるんです。どこへ行っても父のことを知っていると言われるし、すごいなあと思いました」

 沖縄・西表島の大原中学校に父の座右の銘でもある「弱気は最大の敵」という文字を壁面に見つけ感動を覚えたともいう。

 クラウドファンディングでは、予定の400万円を大きく上回る2600万円が集まった。当初は父の故郷でもある山口県内での設立を目指していたが、多くのファンの目に触れるように広島市内での設立に奔走した。

 順風満帆のように思えた「津田恒美記念館」設立だが、「一度だけでなく、何度も足を運んでもらえる記念館にしたい」という思いは、場所や内容が思うように進まなかった。

 そこに現れたのが、現在記念館1階のスポーツファンベースを経営する岡村秀幸さんだ。料理人のプロとしてカープ選手らとの交流もある岡村さんは、記念館の設立に尽力。記念館の館長だけでなく、併設するカフェを任せられるよう指導をしている。

 「広島人にとって高校時代の津田さんは嫌いだったんだけどね。広島の高校がとにかく打てないんよ」と笑う岡村さんは「津田さんの息子が頑張っているんだからファンのわしがやらんといかんじゃろうと思った」と記念館設立に一肌脱いだ。

 「カフェを覚えさせて料理を教えている。よう遅刻はするけど、カフェマシンはピカピカにしている」と大毅さんの成長する姿を見守っている。

 岡村さんは津田さんの知り合いの知り合いだ。

「本当にオープンできるのかなと思っていたんですが、主人がお世話になっていた人のご縁でできた。主人がつないでくれたと思っています」

 晃代さんは津田さんがつないでくれた「縁」に感謝する。

 7月20日、津田さんの命日には岡村さんが経営するスポーツファンベースで「没後27年 炎のストッパー津田恒美を偲ぶ会」が開催された。

 演劇集団よろずやによる「広島東洋カープ公認・炎のストッパー津田恒美物語『バイバイ』」のDVDが流された。津田さんを演じる劇団主宰・寺田夢酔は2歳のころにがんになり奇跡的に助かった。その影響で「何年かけても津田さんの物語をやりたい」と1996年に劇団を立ち上げ、2011年に「バイバイ」を初上演した。

 また7月1日には広島で毎年恒例となっているタレントの山田雅人による「かたりの世界」で炎のストッパー津田恒美物語が上演された。

 山田は「10年を目標にスタートし、広島で10回目の公演を迎えることができました。年に1度、命日の月である7月に開催していますが、この日は津田さんがよみがえる日」と話した。

 生まれ故郷にある周南市野球場の愛称は「津田恒実メモリアルスタジアム」(登録名表記)となり、その功績は至るところに残っている。

 通算成績は49勝41敗90セーブ。2012年に野球殿堂入りしたが、晃代さんは「地元の野球大会やバイバイや山田雅人さんに津田の名前を表に出していただいた。それが殿堂入りにもつながったと思っています。みなさんの力で殿堂入りさせてもらったと思っています」と話す。

 広島の街はカープ一色だ。マツダスタジアムには「笑顔と闘志を忘れないために」「直球勝負」という言葉の入った津田プレートがある。4連覇を目指す今季の戦いはジェットコースターのように好不調が激しい。

 チームを率いる緒方孝市監督や高信二ヘッドコーチは、津田さんと同じ宮川孝雄スカウト(故人)が担当したこともあり、選手時代に津田さんと深いかかわりをもっていた。

 高ヘッドコーチは「家に食事に行ったこともあるし、スカウトが同じ宮川さんで一緒やったから、入った時から可愛がってもらった。普段はひょうきんな人やけど、マウンドに上がったら闘志むき出しの打てるもんなら打って見ろという、それが俺らが内野ショート、サードを守っていても背中から分かるようなピッチャーやったよね。春先に病に倒れてその年優勝したんよね、津田さんのためにというのがみんなの中にあったと思う。津田さんのことは忘れられんよね。」と懐かしんだ。

 熊本に住む晃代さんは津田さんの命日を広島で迎えた。

 「2012年の殿堂入りのときに私の役割は終わったと思っていたんです。息子がこういうことをやるので、息子の力だけではなく、見えないところで主人の力も働いていたと思うんです。縁に導かれたように広島に戻ってくることができました」

 8月1日は津田さんが生きていれば59回目の誕生日となる。

 晃代さんは「どんな姿になっているんでしょうかね」と亡き夫の姿を想像した。

 あと2年で父が亡くなった年齢となる大毅さんは「自分にはまだ子どもはいないんですけど、子どもを残して病気になって亡くなったのは悔しかったと思います」と話した。

 亡き父に反発を覚えたこともあった大毅さんは、津田さんが活躍した広島に住んで半年がたつ。父が残した縁やファンに支えられ津田恒美記念館の館長として家と店の往復の毎日を送る。

 「20何年がたってもお父さんのファンがいることがすごい。父親の偉大さを感じます。まずは気軽に立ち寄っていただけるようにしたい。記念館に入らなくても試合を見に行く途中に涼んでもらえるような、ファンの交流の場になればいいと思っています」

 父の命日。津田恒美記念館に併設するカフェの大型スクリーンには、カープが巨人に逆転勝ちする試合が映し出されていた。(デイリースポーツ・岩本 隆)

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