【野球】智弁和歌山・高嶋監督「ノックが打てなくなった」が物語る執念

 走り続けた熱血指揮官が、高校野球人生に幕を引いた。甲子園最多68勝の智弁和歌山・高嶋仁監督(72)が25日、勇退を発表。情熱を注ぎ続けた指導者生活の一端を振り返ってみたい。

 高嶋監督は智弁学園を経て1980年、創立3年目の智弁和歌山へ赴任した。当初はトレーニングで10分ともたない状態のチームで、「技術を教えるより実戦で何かを感じさせよう」と箕島(和歌山)・尾藤公監督や池田(徳島)・蔦文也監督ら名将に胸を借りることを決意。練習試合に出向いては大差で負けて帰って来る、を繰り返した。

 そんな中であることに気付く。「たくさん点を取られて、選手たちが試合中に悔し泣きするんです。それを見て、ひょっとしたら甲子園に行けるんちゃうかと思った。悔しさを知ったら人間って変わってきますから」と確信したという。

 85年春の甲子園に初出場すると、87年には夏の甲子園初出場と聖地への道は開けた。しかし5度の出場で1勝も挙げることはできず、再び壁にぶち当たった。

 転機になったのが92年夏の甲子園。「バックネット近くでお客さんに『智弁和歌山よう来たな。また負けに来たんか』と言われ、私は甲子園に出ようと必死になっていたが、甲子園で勝つことを考えて練習してなかったなと思ってね」。冷静に、甲子園で過去5回敗戦した時のビデオを何度も見直した。

 出した答えが「投手を軸にした守り」。基本にほころびがあったことをあらためて発見した。「一層守りに気合を入れて練習しました。智弁といえばバッティングと例えられがちですが、私の原点は守り。練習時間も、打撃よりノックの方が長い」と振り返る。

 自分の手でノックを打たなければ気が済まず、始めると5~6時間はノンストップ。遠征で負けて学校に帰って、夜中まで練習ということもあった。熱血指導で94年春の優勝以降、甲子園常勝軍団を築き上げた。

 それだけに近年、体力の衰えを実感した時は歯がゆかっただろうと察する。25日の会見で辞任理由に挙げた「ノックを打てなくなった」という言葉に、高嶋野球のすべてが集約されていた。(デイリースポーツ・中野裕美子)

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