「大阪松竹座」が5月に閉館、時代とともに歩んだ103年…大正時代から“最新の娯楽”を発信
1923年に開館し、2026年5月末で閉館する、大阪のシンボル的な大劇場「大阪松竹座」。大正、昭和、平成、令和と、各時代の最新の娯楽を発信しつづけ、近年は伝統芸能と現代のカルチャーの出会いと融合の場所となっていた。
3月31日には今後の活用について大阪府市との協議に入ると発表されたが、まずは現在の歴史に一区切りが付く。まさに「大阪の大衆文化の交差点」といえる劇場の歴史を振り返りつつ、その裏側も紹介していきたい。
■ 大阪が人口・産業ともに日本一、「大大阪時代」に開館「松竹」の創業者・白井松次郎によって「大阪松竹座」が開館した1923年(大正12年)は、大阪が人口・産業ともに日本一を誇る「大大阪」と呼ばれた時代のまっただ中。日本初の鉄筋コンクリート造りの劇場で、現在も残っているアーチ状のエントランスは、イタリアの「ミラノ・スカラ座」をオマージュしたものだ。当時は映画の上映と、松竹楽劇部(現在の「OSK日本歌劇団」のルーツ)のレビューの2本立てが基本で、特にこけら落としで上映された野村芳亭監督の映画『母』は、この開館に合わせて特別に製作されたものだったそうだ。
松竹楽劇部は、大正時代に生まれた日本オリジナルの文化「少女歌劇」を牽引する存在として、大きな注目を集めていた。当初は常設小屋を持たなかったが、ホーム劇場ができたことで腰を落ち着けた活動が可能となり、1926年には現在までつづくレビュー「春のおどり」が誕生。楽劇部の人気が沸騰するとともに、大阪松竹座のブランド力も向上したが、1934年には別の劇場に本拠地を移転した。この辺りの顛末は、松竹楽劇部から生まれた大スター・笠置シヅ子をモデルにしたNHKの連続テレビ小説「ブギウギ」(2023~2024年)でも描かれている。
また、当時はまだサイレント映画が主流だったため、映画上映には弁士や生演奏が付いていた。伴奏を受け持つ「松竹管弦楽団」は、その技術の高さで大阪の音楽シーンの中心的な存在となったそうだ。1935年には、のちに日本を代表するバイオリニストとなる辻久子が、わずか9歳でここからプロデビューを飾っている。さらには、西洋の舞台芸術を取り入れた二代目市川猿之助の新作歌舞伎や、戦前の大女優・初代水谷八重子の舞台公演など、若手芸術家たちの実験の場としても活用されていたそうだ。
■ 大阪大空襲で周辺は焼け野原も…奇跡的に耐え抜いた過去また、海外アーティストの来日公演やイベントに対応できる劇場も、大阪には大阪松竹座しか存在しなかったため、戦前の大スターたちが幾人も足を踏み入れた。
1923年には、のちに日本でバレエ教育に力を注ぎ「日本バレエ界の母」と呼ばれたロシア人バレリーナ、エリアナ・パヴロワの公演が実現。1929年にはアクションスターの先駆けと言えるダグラス・フェアバンクス、1932年には言わずとしれた喜劇王のチャーリー・チャップリンが来訪している(ただし、フェアバンクスは人が押し寄せたため劇場には立ち入れず)。日本にいながら世界のトップに触れることができる、当時の大阪では貴重な場所だったのだ。
こういったイベント以外でも、デザイン性の高さで評価された無料のパンフレット「松竹座ニュース」を発行するなど、様々な方面から同時代の最先端の文化「モダニズム」を紹介。「大阪松竹座に行く」ということ自体がステータスとなる、まさに大阪文化の中心地と言える劇場だったのだ。やがて戦争の時代に突入し、周囲の「道頓堀五座」と呼ばれた劇場が空襲でことごとく焼失したなか、大阪松竹座は奇跡的に耐え抜いた。終戦から数週間後には早くも映画興行を再開し、失意の大阪の人々に文化の光を灯す存在となった。
■ 戦後の人気をくみ取り…「洋画ロードショーの映画館」として再出発そこからしばらくは松竹映画の封切館として活動をしていたが、洋画人気が高まっていったこともあり、洋画ロードショーの映画館として再出発する。1952年に日本公開が始まった『風と共に去りぬ』は、3時間以上という上映時間の長さもあってか、当時の入場料が一般100円のところ、300円(しかも自由席が基本の時代に全席指定!)の特別価格となった。しかしそれでもチケットを求めて人々が並び、当時としては異例の2カ月のロングヒットとなった。
そのほかにも「ジョーズ」「E.T.」「ラストエンペラー」「ボディーガード」など、社会現象を巻き起こした大ヒット映画を数多く上映し、関西の映画好きなら間違いなく一度は足を運ぶ人気劇場に。ちなみに「E.T.」(1982年)の98日間で28万9723人、興行収入3億7564万700円は、当時の劇場の最高記録。1986年の「ロッキー4 炎の友情」(1985年)は、日計1万5026人という当時の動員新記録を樹立している。
このように映画館の印象が強かった戦後の大阪松竹座だが、音楽や演劇の公演も時おり行われていた。1953年からはじまった朝比奈隆指揮「大阪フィルハーモニー交響楽団(当時関西交響楽団)」のクリスマスコンサートは、ミナミの年末恒例行事として界隈の人々に親しまれた。また、「サッチモ」の異名を持つジャズトランペッター&歌手のルイ・アームストロング、「パントマイムの神様」と呼ばれたマルセル・マルソー、「マンボの王」の称号を持つベレス・プラードなどが舞台に立っている。
しかしビデオデッキの登場や娯楽の多様化などで、大スクリーンで映画を観る人が減少していくという状況を受けて、1994年に映画館としての大阪松竹座は閉館。最後に上映されたのが「風と共に去りぬ」というのが、消えゆく映画館とのダブルミーニングとなっていて、洋画の殿堂と言われた大阪松竹座らしい趣向だ。ちなみに2026年2月11日~15日に開催された「さよなら大阪松竹座 特別名画上映会」でも、最終上映となったのは「風と共に去りぬ」だった。
■ 上方歌舞伎、関西ジュニアなど…多様な舞台作品に対応する劇場へ映画館としての役割を終えた大阪松竹座は、次は多様な舞台作品に対応できる劇場──特に「上方歌舞伎」の復活の場として生まれ変わることになった。全国的に高い人気を誇っていた歌舞伎俳優も多数いたものの、戦後の大阪の歌舞伎の拠点だった「中座」(現在の中座くいだおれビル)は収容人数が少ない上に舞台機構に制約があり、上演できる演目に制限があった。それもあって大阪では歌舞伎人気が下火となっており、そこにテコ入れをするための劇場計画だった。
そして1997年、松竹の100周年と合わせて「大阪松竹座」が劇場として復活。こけら落としとして3カ月連続で歌舞伎興行が打たれ、翌1998年には十五代目片岡仁左衛門の襲名披露が2カ月に亘って開催された。通常大阪での襲名披露公演は1カ月で終わるので、いかに松竹と仁左衛門が新生大阪松竹座に力を注いでいたのかがわかる。とはいえ、東京の「歌舞伎座」のように毎月歌舞伎公演を行うには至らず、それ以外の時期の活用方法には課題が残ったままの出発だったそうだ。
とはいえ、商業演劇にはほどよい客席数(約1000席)と舞台機構の充実ぶりが知られるにつれ、いろんなジャンルの主催公演が増えていった。特に「STARTO ENTERTAINMENT」は、映画館時代の最後の公演が「TOKIO」のライブであり、また新装開場した1997年には「SHOW劇'97 MASK」が上演されるなどの縁がつづき、やがて実質的な関西の拠点となった。また2002年からは関西ジュニアの公演が定期的に行われ、以降「SUPER EIGHT」「WEST.」「なにわ男子」「Aぇ! group」などの関西発のグループが、ここから全国に羽ばたくことになる。
また歌舞伎公演も、様々な面で花が開くことになった。とりわけ大阪松竹座に育てられたと言えるのが、大阪の一般家庭に生まれ育ちながらも、故・片岡秀太郎の養子となり、今や歌舞伎界を代表する俳優の一人となった片岡愛之助だろう。上方をルーツに持つ若手・中堅俳優たちと研鑽する「花形歌舞伎」公演に加えて、大阪松竹座がプロデュースする現代演劇公演や、歌舞伎とフラメンコをミックスした実験的な舞台などに出演し、大阪の歌舞伎人気を高めるキーマンとなっていった。「半沢直樹」で一挙に知名度を上げたとき、大阪の人々は「ようやく全国が気づいたか!」と鼻を高くしたことだろう。
また劇場復活と同年に開塾した「松竹・上方歌舞伎塾」でも、塾生から名題に昇進した片岡松十郎、片岡千壽、片岡千次郎など、上方歌舞伎を未来につなげる役者たちが今も育っている。
さらに2000年には、当時はまだ「関西小劇場演劇」の枠のなかでしか語られていなかった、大阪の劇団「劇団☆新感線」が、ロックテイストの時代劇路線「いのうえ歌舞伎」の代表作「阿修羅城の瞳」を、梨園の御曹司・松本幸四郎(当時七代目市川染五郎)を迎えて上演。古典歌舞伎の芝居小屋で、歌舞伎の要素を取り入れた現代劇を上演するという試みは関係者に大きなインパクトを与え、2007年には幸四郎のために書き下ろされた新作歌舞伎「朧の森に棲む鬼」を上演。歌舞伎と現代のエンターテイメントの融合が一気に進んだことを、関西の観客たちに知らしめる記念碑的公演となった。
そして「松竹新喜劇」も、ホームとしていた中座の閉館を機に大阪松竹座へ。OSK日本歌劇団も、紆余曲折を経て一度は解散危機に陥ったりもしたが、2004年に劇団復活公演となるレビュー「春のおどり」を大阪松竹座で開催。実に66年ぶりの凱旋となった。歌舞伎、現代演劇、アイドル公演、松竹新喜劇、レビュー、さらに上方落語と、まさに多種多彩な大阪の文化を全国に発信するための基地となっていき、2023年にはコロナ禍を乗り越えて開場100周年を迎えたところだった。
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今を生きるほぼすべての大阪の人にとって、生まれたときからそこにあった大阪松竹座。披露される作品は時代によって変化したが、一貫して流れていたのは「これ、めっちゃオモロイで!」をジャンル問わずに発信し、ときにはプロデューサーとして異ジャンルをミックスさせて、新しい「オモロイ」を生み出していくという、自由で熱い精神だった。また壮麗な劇場のエントランスだけでなく、夏の歌舞伎興行の前に、歌舞伎俳優たちが船で道頓堀を縦断する「船乗り込み」を夏の風物詩とするなど、年々変化していく道頓堀のなかにあって、戦前の「芝居の街」の面影を守っていく役割も果たしていた。
というわけで、大阪松竹座のない大阪の大衆文化は、これからどうなっていくのだろうか? というのが正直な気持ちだ。しかし大阪松竹座の舞台で鍛えられた俳優や歌手やダンサーや噺家たち、そして彼らに大阪松竹座で出会い、そのジャンルの沼に見事にはめられた観客たちも「第二の大阪松竹座」の実現を、どこかで夢見ているはずだ。大勢の人たちの見る夢が1つの大きな力となって、また新たな大阪文化の交差点となる空間が生まれることを、心から願っている。
大阪松竹座では今後、4月3日~26日に「御名残四月大歌舞伎」、5月2日~26日に「御名残五月大歌舞伎」を上演。片岡仁左衛門、中村歌六、中村鴈治郎、中村扇雀、片岡進之介、片岡孝太郎、松本幸四郎(4月のみ)、中村獅童(4月のみ)、片岡愛之助(5月のみ)などが出演する。両公演とも一等席2万6000円、二等席1万3000円、三等席7000円。チケットは現在発売中(一部完売・貸切の回あり)。
取材・文/吉永美和子
※こちらの情報は4月11日現在のものです
(Lmaga.jp)
