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有馬記念を制したHEROたち ~スポーツ新聞及び夕刊紙による9社合同特別企画~

 数々の輝かしい戦績を残し、種牡馬としてもその優秀なDNAを紡ぎ続けるグラスワンダー。28歳となった今、けい養されている牧場ではどう過ごしているのか-。今年の有馬記念を前に、暮れの大一番を制した名馬の姿を紹介する。※文中の馬齢は現表記

グラスワンダーは今 現在28歳、人気衰えぬ格好いい〝旦那〟

 北海道新冠町内にある〝サラブラッド銀座〟。海沿いから約6キロ近く、山間に向けて車を走らせると、1頭の栗毛が放牧地の区画内で草をモグモグと食べては時折、はるか遠くの山々をぼんやり眺めているのが見えた。

 彼の名はグラスワンダー。現在28歳である。人間なら80歳近く。明和牧場の浅川明彦さんは「普通、22、23歳くらいで亡くなってしまう馬が多いけど、ストレスを感じないのか長生きをしてくれています」とうれしそうに話す。20年に種牡馬を引退。ここに移動してから3年ほどたつ。「大きな病気もせず元気いっぱい。春先に湿った牧草を食べて少しお腹を壊したりはしたけど、本当によく食べる馬で、なるべくストレスを与えないように生活させることを心掛けています」。そんな浅川さんは普段、グラスを「旦那」と呼ぶそうだ。「僕がお酒好きだから。居酒屋にいる雰囲気で話し掛けているような感じ」と笑う。

 牧場内の厩舎にはファンの方々から贈られた健康祈願の絵馬、お守り、そしてぬいぐるみが飾られている。「本当に人気がある馬なんですよ。誕生日には花束を贈ってくれる方もいるし、生牧草バンクを使ってエサを贈ってくれたりね。どうしてこんなに人気があるのか」とニヤけるが、記者が「栗毛で気品あふれる姿が格好いいからでは」と話すと、「うん、この馬は格好いい。それでいて性格もおとなしくてね。競走馬時代から厩舎の方に大事に育てられていたと思うよ」と〝旦那〟の鼻面をなでた。

 そんな彼の大好物はニンジン。「ハイセイコーなんかはバナナ、リンゴなど甘い物が大好きだったけど、旦那はニンジンだけ。ただ、年を取っているから小さく切ってあげて、エサと一緒にあげているんです。エサもカロリーを計算して軽めにして、脚元に負担がかからないように気を使っています」と説明してくれた。

 浅川さんはかつて、茨城県内に居を構えてサラリーマン生活を送っていた。しかし「馬というより競馬が好きで」と転職を決意。まだハイセイコーが種牡馬として活躍していた時代から、明和牧場の事務方としてこの世界に飛び込んだという。「種牡馬としてスクリーンヒーローを残して、孫のモーリスまで活躍なんてね。この馬はオーナーさんら人々から大切にされてきて恵まれた馬だと思う」とうなずいていた。

本紙・松浦が語る グラスの血 〝つぶしが利く〟から世界、未来へ

 単刀直入に、尾形充弘元調教師にグラスワンダーの誕生秘話をうかがったところ「まずは馬体の良さが一番。その上で、父シルヴァーホークが日本に適したロベルト系というのは大きかった。また、それ以上に母父のダンチヒは決め手でした。私はダンチヒの血を求めていましたから」という答えを得られた。

 本馬の戦績は言わずもがなだが、種牡馬としての功績があるのも魅力の一つだ。産駒にはスクリーンヒーロー(08年ジャパンC)、アーネストリー(11年宝塚記念)がおり、セイウンワンダーは08年朝日杯FSで父子制覇を達成。母父として、メイショウマンボ(13年オークス、秋華賞、エリザベス女王杯)を輩出したことも特筆しておきたい。

 その後、スクリーンヒーロー産駒のモーリス(15年安田記念、マイルCS、香港マイル、16年香港チャンピオンズマイル、天皇賞・秋、香港C)、ゴールドアクター(15年有馬記念)が種牡馬入り。さらにはモーリス産駒のピクシーナイト(21年スプリンターズS)が、父子4代でのGI競走制覇を果たした。84年のグレード制導入後、直系牡馬での達成はJRAにおいて史上初の快挙であった。

 さらに、モーリス産駒はジェラルディーナ(22年エリザベス女王杯)とジャックドール(23年大阪杯)がGⅠ制覇。シャトル種牡馬としてけい養された豪州では、ヒトツとマズが豪GⅠを制した。「当時、未知な面が多かったシルヴァーホークの子だけに、ダンチヒの血があれば〝つぶしが利く〟という計算はありました。それゆえ、ここまでの馬になるとは…競馬は奥が深いね。孫やひ孫の活躍は素直にうれしいです」。尾形氏が日本に導いた血は世界、そして未来へと羽ばたいている。

尾形充弘元調教師 「男にしてもらった」

 日本競馬界において多大な功績を残した尾形藤吉氏の孫として、現役時代にJRA通算800勝を挙げた尾形充弘元調教師(76)は、グラスワンダーについて聞かれると「陰に隠れていたトレーナーがこの馬によって日の目を見ることができました。調教師として男にしてもらいました。感謝してもし切れないです」と答えた。

 自身のGⅠ初制覇となった97年朝日杯3歳S(現・朝日杯FS)、宿敵スペシャルウィークに3馬身差で完勝した99年宝塚記念も忘れられないが、98、99年に連覇を達成した有馬記念は格別な思いがある。「伝統があり、格式の高いレース。有馬記念を勝った馬がその年を代表する一頭になりますからね」。98年は天皇賞・春を制したメジロブライト、同世代の皐月&菊2冠馬セイウンスカイ、GⅠ2勝馬エアグルーヴが人気を集めたが、復活を遂げる勝利を挙げた。「まだまだ遠いところにいましたけど、有馬記念を勝ったことで、祖父に一歩、いや半歩は近づいたかなと思いました」と振り返る。

 1番人気に推された翌年は、接戦の末の勝利。「負けたと思っていました。ユタカ君(武豊騎手)はウイニングランをしていたし、場内は大歓声で」。しかし、結果は鼻差でグラスに軍配。「この時、検量を終えた彼から〝先生おめでとうございました〟と言われたことを覚えています。悔しかったでしょうが、素直にこのようなことを言えるユタカ君は、名ジョッキーであり、人としても素晴らしいと思いましたね」。いろいろな思いが交錯した勝利だった。

 「この夏、グラスに会ってきました。同じ時代を走ったライバル達は天国へ行ってしまったけど、グラスは元気な姿を見せています。それが何よりうれしいことですね」。尾形氏にとって、単純な言葉では言い表すことのできない特別な存在だ。

元・主戦騎手 的場均が語る またがってすぐ感じた「モノが違う」

 初めてまたがった時からグラスワンダーは大物だと思ったよ。尾形先生から「走りそうだから乗るか?」と聞かれて、乗った後に「モノが違います。超一流馬になります」と答えたのを覚えている。

 かわいい顔をしていたよ。鼻に小さなこぶがあってね。性格もすごくいいし、物覚えもいい。最初の頃はゲートの扉が開くのを怖がる面があったけど、3戦目くらいで怖くないことを理解してくれた。朝日杯3歳Sを勝つまでステッキをほとんど使っていないんだから。強かったよな。

 翌年は、毎日王冠を使う前は大丈夫だったけど、レースが終わってから暑さがこたえてガタッと来てしまった。それが有馬の2、3週前あたりからやっと良くなってきてね。担当厩務員の大西(美昭)さんに言ったんだ。「今度は走る」と。

 俺は勝ちたいレースの2、3カ月前からライバルの調子や展開などを考えて臨むんだけど、この時、一番怖かったのはメジロブライトだった。だけど、有馬記念前のフェスティバルではあえて「セイウンスカイが強いでしょう」と。ノリ(横山典弘騎手)にプレッシャーを与えるためにね(笑)。

 向正面を回った時に〝間違いない。いい勝負になる〟と思った。ただ、前にいるセイウンスカイやエアグルーヴを見ながら、後ろも気にしないといけない。3角手前、ブライトに差されないように仕掛けたけど、やっぱり最後はブライトが来たなぁ。

 翌年はいろいろあって、グラスの体調が全然上がってこなくてね。頭が痛かったよ。相手はスペシャルウィーク1頭。こちらが万全だったら自信があったけど、今の状態で1対1の競馬をしたら勝てない。だから他馬の動きを利用することにしたんだ。最初のコーナーを回った時点でうまくいったと思ったよ。ペースもイメージ通りだったし、ユタカ(武豊騎手)の乗り方も想定通りだった。

 ゴール直後は負けたと思った。だけど引き上げてきて2着の所に入ろうとしたら、助手が「勝ってる!」と言うんだ。グラスに助けられたね。今まで教育していた通り、最後は馬が歯を食いしばって頑張ってくれた。

 絶好調で勝つのは当たり前。そうじゃなくても勝つのが名馬なんだよ。(JRA調教師)

デビューから3戦ノーステッキ

 スピードに優れたダンチヒの血を母系から継ぎ、95年2月18日に誕生した栗毛のシルヴァーホーク産駒。のちに日本で旋風を巻き起こすグラスワンダーだ。96年、米キーンランドのセプテンバーセールに上場されると、尾形充弘調教師の目に留まり、25万ドル(当時のレートで約2700万円)で落札された。開業14年目のトレーナーの目に留まったダイヤの原石だった。

 デビュー戦は97年9月13日の中山芝1800メートル。スタートであおるも、2番手へとリードした鞍上・的場均。直線はほぼ馬なり。ノーステッキのまま3馬身差の完勝を決めた。続くアイビーSは後方待機で脚をためると、府中の長い直線を楽々と突き抜け、またもノーステッキの5馬身差V。そして3戦目の京成杯3歳S(現・京王杯2歳S)は、重賞ウイナー2頭を退けて6馬身差の圧勝劇。またまたステッキを使う場面はなかった。

 そして、世代王者を決める朝日杯3歳S(現・朝日杯FS)。15頭中11頭が外国産馬で無敗馬5頭の豪華メンバーだったが、単勝1・3倍の支持が期待の高さを物語る。レースは中団から進めると、4角手前で外から一気に加速。並ぶ間もなく前をかわして90年覇者リンドシェーバーの記録を0秒4更新する1分33秒6のレコードV。驚くほどの強さだ。初めてステッキが入ったが、「ホントに強い馬。これだけの馬はそんなに出ないだろう」と鞍上は称賛。〝怪物〟の物語は華々しい幕開けとなった。

復活劇から始まる伝説の序章

 しなやかなバネから繰り出される豪脚。デビューから圧倒的な強さを誇り朝日杯3歳Sまで4連勝を飾ったグラスワンダーだが、骨折により3歳春は全休を余儀なくされた。そして、秋の復帰戦に選ばれたのが、今や伝説のレースとも呼ばれる毎日王冠だった。

 98年に入り、5連勝で宝塚記念を制した最強古馬サイレンススズカ、デビューから無傷5連勝中のエルコンドルパサー、そして復帰を果たしたグラスワンダーが激突。3強の集ったこの夢の一戦をひと目見ようと、東京競馬場には徹夜組が1000人近く並び、当日は13万3000人超の観衆が詰めかけた。

 ハナを切ったのは当然サイレンススズカ。前半1000メートルを57秒7というハイペースで逃げ、グラスワンダーは5番手の位置。3角過ぎ、大けやきの手前からレースが動く。外を回ってポジションを押し上げていくグラスワンダーの動きに、呼応するようにどよめく歓声。4角を回り直線入り口では2番手をうかがうも、ここから伸びあぐね5着に敗れた。「着を拾う競馬なら、もう少し我慢していたけど、早めに動いた分、最後は脚が上がってしまった」とは鞍上・的場の言葉。あくまで勝ちにいった競馬に、後悔はみじんもなかった。

 叩き2戦目のアルゼンチン共和国杯。メンバーレベルも大幅に緩和され、当然のように1番人気に支持されたが結果はまさかの6着。この期待外れの凡走に、世間からは〝早熟馬〟の声もささやかれ始める。それでも陣営は〝必ず走ってくれる〟の一念で、暮れの大一番・有馬記念へ。中間はハードなトレーニングを施し、鮮やかなかつての栗毛が輝きを取り戻しつつあった。

 8頭のGⅠ馬が顔をそろえたドリームレース。その中で、同期の2冠馬セイウンスカイ、GⅠ2勝の女傑エアグルーヴ、同年の春盾を制したメジロブライトに次ぐ4番人気の支持を受けた。レースはセイウンスカイが単騎で逃げる展開。グラスワンダーは中団内めでじっくりと脚をためた。そして動きがあったのが3角過ぎ。的場の手綱はピクリともしていないが、前を行くエアグルーヴをかわすとグングン勢いが増していく。抜群の手応えのまま4角で前を射程に捉え、直線で勢いに陰りが見えたセイウンスカイを一気に抜き去り先頭へ。最後は後方から迫ったメジロブライトの追い上げを封じ込め、1年ぶりに歓喜のゴールを駆け抜けた。尾形師が「ようやく胸のつかえが取れた」と涙ぐんだ、見事な復活劇だった。

 ただ、ここまではまだ序章。この後、グランプリ3連覇の金字塔が打ち立てられていくとは、この時は誰も予想していなかった。

ドリームレース3連覇から血は次代へ

 復活を遂げた有馬記念から、さらなる高みを目指した4歳シーズン。しかし、始動予定だった中山記念を骨膜炎で、大阪杯を左眼の外傷で回避するなど順調さを欠いた。ようやく復帰にこぎ着けたのは京王杯SC。先行勢が粘り込みを図るところを、大外からあっさり差し切ってみせた。

 不安を払しょくした前哨戦だっただけに、本番の安田記念では単勝1・3倍の圧倒的な1番人気に推された。中団やや後ろから進めると、直線半ばで先頭へ。あとはそのまま押し切るだけだったが、外からエアジハードが迫ってくる。最後の100メートルは、もはやこの2頭だけの世界だった。併せ馬のままゴールへ飛び込むと、写真判定の末、軍配が上がったのは鼻差でライバルの方。主戦の的場は「ファンの夢、つぶしちゃったな」と悔やんだ。

 巻き返しの思いを胸に挑んだ宝塚記念は、1・5倍で単勝1番人気のスペシャルウィークに次ぐ2・8倍の2番人気に。同期2強による一騎打ちムードが漂っていたが、終わってみれば3馬身差の完勝だった。道中はスペシャルウィークをピッタリマーク。まくり気味に先頭へ立った相手をはるかに楽な手応えでかわすと、最後は流す余裕さえ見せ、〝怪物〟の称号をほしいままにした。

 秋はジャパンCを目標に毎日王冠で始動したが、結果は約3センチとわずかの差でのV。陣営に喜びの色はなかった。さらに、ジャパンCへ向けて調整中に脚部不安を発症。大一番を回避せざるを得なくなった。

 迎えた年末の有馬記念。再び同期のスペシャルウィークと相まみえた。宝塚記念とは打って変わってグラスワンダーが先に動き、余力十分に直線へ。が、手応え以上に伸びない。そこに大外からスペシャルウィークが襲い掛かり、馬体を並べてゴールイン。よぎる安田記念の悪夢。敵陣の武豊も勝利を確信していたが、ゴールの瞬間、約4センチだけグラスワンダーが前に。ドリームレース3連覇を成し遂げ、競馬史にその名を刻んだ。

 翌5歳シーズンは体調が整わず白星から遠ざかり、さらに宝塚記念のレース中に骨折していたことが判明。惜しまれながらもターフを去ったが、種牡馬としてスクリーンヒーローを輩出。血統表を通して、今もその存在感は増すばかりだ。

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