豊臣秀吉による「九州征伐」 弟の秀長はどのような活躍をしたのか? 識者語る
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第42回は「北野大茶湯」。天正13年(1585年)10月2日、豊臣秀吉は九州を席巻する勢いの薩摩国の島津義久に対し「九州停戦令」を発しました。ところが島津氏は敵対する豊後の大友氏と和睦する積もりなどはなく、秀吉の命令に従いませんでした。
天正14年(1586年)5月には徳川家康は事実上、秀吉に臣従したこともあり、秀吉はついに九州征伐に乗り出します。同年12月、豊後国戸次川(大分県大分市)において、派遣されていた豊臣方の軍勢が島津軍に敗れたことも秀吉の出陣を決定付けました。この戦いで豊臣方の長宗我部信親(元親の嫡男)や十河存保(三好一族)が戦死しています。
島津氏は「関白(秀吉)に敵対する積もりはないが、長宗我部や大友氏が侵攻してきたので、仕方なく戦い勝利した」との弁明をしますが、秀吉に通じるはずもありません。明けて天正15年(1587年)元日、秀吉は九州征伐の陣容を発表。
細川忠興や前田利長・宇喜多秀家などが出陣することになりましたが、そこには秀吉の弟・秀長の名もありました。秀長は2月10日に約1万5千の軍勢で出陣することが決定されます(秀吉は3月1日に出陣)。
決定通り、秀長は2月10日、郡山城を出陣。2月末には長府(山口県下関市)に進軍しました。3月6日にはついに九州の豊前小倉(北九州市)に到着します。4月6日には高城城(宮崎県児湯郡)を攻囲しました。
高城城救援のためにやって来た島津軍を秀長らの軍勢が撃退、島津方は3百余人が討たれて敗走します(高城・根白坂の戦い)。この戦いは島津方の敗北を決定付けたと言われています。敗退後、豊臣方に寝返る者が増加し、島津義久も降伏せざるを得ない状況となったからです。島津氏は降伏を決定し、ついに九州征伐は終わりを迎えます。同年5月8日、義久は秀吉の陣所(薩摩国の泰平寺)に出家した上で出頭、恭順の意を示しました。
(主要参考文献一覧)
・小和田哲男「戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争」(吉川弘文館、2006年)
・黒田基樹「羽柴秀長の生涯」(平凡社、2025年)
・柴裕之「秀吉と秀長『豊臣兄弟』の天下一統」(NHK出版、2025年)
・和田裕弘「豊臣秀長『天下人の賢弟』の実像」(中央公論新社、2025年)
(歴史学者・濱田 浩一郎)
