「超人ロック」の日に漫画家・聖悠紀さん偲ぶ会 ロックと同じグリーンの祭壇「少年キング」連載の秘話も

 昨年10月に肺炎のため死去した漫画家・聖悠紀さん(享年72)の「聖悠紀先生を偲ぶ会」が9日、東京・マリーグラン赤坂で執り行われた。多くの関係者、ファンが献花を行い、展示されたパネル、原画を見つめ聖さんとの別れを惜しんだ。

 1967年、17歳でSF漫画「超人ロック」を漫画同人会「作画グループ」で発表し、生涯に渡って描き続けた聖さん。超人ロックの日である6月9日。優しい微笑みを浮かべる遺影が飾られた祭壇の両脇には、永遠に生き続ける超能力者で銀河系を舞台に戦い続けるロックのパネルが寄り添うように立てかけられた。幅3メートルの祭壇はロックの髪色と同じグリーンを基調にし、コチョウラン、キク、カーネーションが添えられた。

 聖さんは新潟県出身。同人誌を経て「超人ロック」を少年画報社、みのり書房、KADOKAWAなどの出版社、数々の雑誌で発表した。オリジナル作品の他に、「宇宙戦艦ヤマト」「魔女っ子メグちゃん」「電人サボーガー」などのコミカライズを多く手がけた。テレビアニメ「超電磁マシーン ボルテスV」「闘将ダイモス」のキャラクターデザインも担当した。2020年にパーキンソン病との闘病を公表し、近年は休載が続いていた。

 連載中だった「ヤングキングアワーズ」を発行する少年画報社の戸田利吉郎社長(77)は「前にも後にも『超人ロック』のような作品はない」と聖さんへの敬意を口にした。

 戸田社長は1979年、後に編集長を務めたが当時は編集部員として「少年キング」で聖さんの連載立ち上げに関わった。「超人ロック」は77年に商業誌では初めて「月刊OUT」(みのり書房)の増刊誌での短期連載が始まり、その終了後、聖さんと接触。「超人ロックは既に同人誌で4冊単行本が出ていて、ものすごい人気でした。僕の1つ下に坂本益造という編集者がいて、彼や僕が日参してお願いしていました。坂本くんは2004年に58歳で亡くなってしまったけれど、彼は同期の稲葉という編集者が松本零士先生の『銀河鉄道999』を手がけて大ヒットしていたので、歯ぎしりしていました」と連載開始前の状況を振り返った。

 坂本さんの熱意が実り、商業誌での本格連載が始まったが「聖先生には思う通りに描いてもらいました」と自由な創作を託した。当時のSFブームの中でも「超人ロック」は異質だったという。「編集部で『超人ロック』を読んでいるのが坂本くんと僕の2人しかいない。当時は“ESP”“サイコキネシス”“プシ陰線”などのSF用語が分からない人が多かった」。編集部内の評価はもうひとつだったというが、単行本の発売直後に一変した。「毎月増刷がかかるほど売れました。会社の上層部は大喜びしていましたね。他の出版社も『あんな難しいSFがウケるはずがない』という感じだったけれど、悔しかったと思いますよ。確かに最初は難しいけれど、読むとどんどん面白くなる作品でした」。レコードのイメージアルバムが発売され、ラジオドラマ化されるなど、SFファンの枠を超え大きな反響を集めるようになった。

 苦い思い出もある。1984年の劇場版アニメだ。3月に公開された「超人ロック」「少年ケニア」「風の谷のナウシカ」は“春のアニメ戦争”と評された。「下馬評では『超人ロック』が1番手だったはずだけど、僕は映画館で『ナウシカ』を見て、これはすごいなと驚きましたよ」と回想。「僕も坂本くんも、そして聖先生もいろいろ意見を出したんだけど『こちらに全てお任せ下さい』の一点張りで映画には反映されなかった。正直、あまり出来は良くなかったね」と残念そうに語った。

 「少年キング」(後に「少年KING」へ)が休刊してからは、しばらく距離が空いていたが2003年に「ヤングキングアワーズ」で連載が開始され、再び少年画報社との縁ができた。戸田社長は亡くなる前にも見舞いに向かったという。「人間的には優しくて素晴らしい人でした。お酒は飲めないけれど、麻雀が大好きで、漫画家の友人も多い先生でしたよ」と、聖悠紀さんを悼んだ。

(よろず~ニュース・山本 鋼平)

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