『鎌倉殿』義時に迷い!? 官軍を迎え撃つか、京へ出撃か 尼将軍・政子の言葉が歴史を決めた 識者が語る

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第47回「ある朝敵、ある演説」では、後鳥羽上皇(尾上松也)が北条義時(小栗旬)追討の命令を発し、北条政子(小池栄子)の有名な演説シーンが描かれました。

 承久3年(1221)5月19日、京都守護・伊賀光季の使者が都から鎌倉に驚くべき報をもたらします。それは「後鳥羽院の御所に軍勢が集まっている」という不穏なものでした。そして、同日の午後には、官軍により、伊賀光季がすでに攻め殺されたこと(15日)、北条義時を滅ぼせという後鳥羽院の命令が下されたことが情報として入ってきます。

 後鳥羽院の命令書を鎌倉にもたらそうとした押松丸が、鎌倉で捕まり、命令書は押収されました。都にいた三浦胤義(三浦義村の弟)も、兄・義村に書状を出していました。それは「朝廷の命令に従って、北条義時を討伐するべし。褒美は望みに任せよう」との院の命令を記すものでした。義村は弟には返事を出さず、弟の使者を追い返し、義時のもとに向かいます。三浦義村は義時に告げます。「私は弟の側には加勢しない。貴方に忠誠を誓う」と。

 そうした時、北条泰時や北条時房、大江広元ほか御家人が続々と参集してきます。御簾のなかには、亡き源頼朝の妻・北条政子がいました。集まってきた御家人たちを前に、政子は安達景盛を通して、自らの言葉を伝えます。

 「皆、心を一つにして良くお聞きなさい。これが今度の最後の言葉である。頼朝様が朝敵を征伐して、関東に幕府を造って以来、朝廷の位にしても、褒美に与えられた領地にしても、その恩は山より高く、海より深いものです。感謝の気持ちは浅いものではないはずです。それなのに、反逆者のでっち上げの訴えのために、道理の通らない朝廷の命令が出ました。勇敢な侍としての名誉を守ろうと思う者は、藤原秀康や三浦胤義を討ち取って、源氏將軍の残した鎌倉を守りなさい。但し、朝廷側に付きたいと思う者は、この場で宣言しなさい」(『吾妻鏡』)

 歴史教科書にもよく掲載されてきた政子の有名な演説です。教科書などでは、また今回の鎌倉殿の13人でも、政子が直接、御家人に語りかけていましたが、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には、政子の言葉を安達景盛が代読した事が記されているのでした。

 政子の言葉を聞いた御家人たちは、感動し、涙を流す者もいたようです。生命を擲ち、御恩に応えよう、御家人らはそう思い、朝廷に味方する者はいませんでした。

 同日の夕方、義時の邸に、泰時・時房・広元・義村らが集まり、会議します。関東で官軍を迎え撃つべきか、都に向けて出撃するべきか、対策が練られたのです。しかし、意見が二分し、すぐに纏まりません。

 義時は姉の政子のもとを訪れ、意見を聞きます。政子の意見は、都に出撃しなければ、官軍を打ち破ることはできない、速やかに出撃すべしというものでした。こうして、幕府軍と官軍が激突する承久の乱が勃発するのです。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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