恋愛成就をリアルに助ける「恋文横丁」が渋谷にあった 英語を書けない人の代書屋がきっかけに

 みなさんは渋谷に「恋文横丁」という場所があったことを知っていますか。今は、若者のファッション情報発信地「SHIBUYA109」を抜けた先「ヤマダ電機LABI渋谷」敷地内にあるステンレス製の「恋文横丁 此処にありき」という碑がひっそり建っています。

 実はこの場所はわが家とはちょっとした因縁があります。昭和20年代から30年代初めの話です。父は道玄坂にある商事会社に、母は同じ道玄坂にある美容院、今でいうヘアサロンに勤務していました。母の勤務する下には理髪店があり、そこに母の弟も勤務していました。

 母はその後、独立。現在の目黒区中央町という場所で「サカエ美容室」という美容院を開店し移り住みましたが、それまでは「恋文横丁」を抜けた先の道玄坂に居を構えていました。そのため、昔話として「恋文横丁」がよく出てきます。第2次世界大戦後の焼け跡に中国大陸などから引き揚げてきた人たちが住みはじめ、中華料理店や雑多な物資を扱うお店が立ち並びました。代書屋、今でいう行政書士の事務所も36軒ほど軒を並べていたそうです。母の記憶によれば、代書屋の中にはお金さえ出せば、大学の卒業論文も書いてくれたところもあったそうです。

 昭和40(1965)年に「恋文横丁」は火事で消失したようですが、昭和54(1979)年4月に「SHIBUYA109」が営業を開始する前は、付近にまだ飲食店や雑多なお店が多く残っていました。妙に色気づいた中学2年生の私が、生まれて初めてトレンチコートを買ったのは、そんなお店のひとつです。

 その場所がなぜ「恋文横丁」と呼ばれるようになったのでしょうか。昭和25(1950)年に始まった朝鮮戦争が発端です。当時、日本に配属された駐留軍のアメリカ兵に憧れた女性は、風俗関係の人も含め多かったといういう話です。けれども、英語を話すことも書くこともできない。彼女たちの思いを伝えるために自然発生したのが、ラブレターの代書屋でした。貧困にあえぐ学生や小説家の卵などが代書屋から依頼を受けて、彼女らのメッセージを英語で代書。また、彼女らが受け取った手紙を、日本語に訳していたようです。

 さぞ多くのカップルが誕生したことでしょうが、昭和28(1953)年7月、朝鮮戦争停戦が米兵たちは帰還を開始。いっしょに渡米して幸せになった女性はほんのひと握りで、代書屋に依頼した恋文の効果も一瞬の夢で終わったことでしょう。そんな「恋文横丁」を舞台に、丹羽文雄が昭和28年に書き、後に映画化された小説が「恋文」です。

 「SHIBUYA109」を訪れた際は、100メートルほど足を伸ばしてください。昭和54(1979)年当時は、当地で営業していた「美美薬局」の店主が「恋文横丁此処にありき」と書かれた木柱の記念碑を建てていました。老朽化のため、平成29(2017)年7月28日にステンレス製に生まれ変わりましたが、昭和の恋愛の息吹を感じられるスポットです。

(デイリースポーツ・今野 良彦)

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