ありがとう灘麻太郎さん 麻雀連載「定石打法」金字塔 「(美空)ひばりの家はね…」芸能界や政財界にも轟いた“カミソリ灘”
プロ雀士で日本プロ麻雀連盟の2代目会長も務めた灘麻太郎氏(88)によるデイリースポーツ麻雀連載「新定石打法」が、5月31日付朝刊をもって終了した。1985年1月7日の正式連載開始から40年あまり、その前の不定期掲載も含めると「50年はやった」と、人生の半分以上をささげた作品作りに一区切り。読者へ感謝の思いを述べるとともに、“カミソリ灘”の異名で日本の麻雀史にその名を刻み、常に麻雀とともにあった勝負師の生きざまを語り尽くした。
小学生で初めて牌を握ってから、もうすぐ80年。今でも「月に5、6回呼び出されて」卓を囲むという灘氏は、米寿を迎えても頭脳、体力ともにまったく衰えを感じさせない。
新聞休刊日を除き、毎日積み重ねてきた連載は、最終的に1万3667回に到達した。毎日例題を考え続けることだけでも驚異的だが、灘氏は「だって、仕事ですから」とケロリ。何度となく経験してきたタイトル戦での局面などから、「初心者の人でも読んで分かりやすい、やさしい問題を意識して」作ってきたという。
北海道札幌市の出身で、小学校時代に近所にあった寺の住職から麻雀を教わった。大学時代にはすでに、麻雀で生計を立てていくことを決意。卒業後は7~8年間、日本全国に加えて香港やマカオなどを放浪し、麻雀のルーツも学ぶことで理解をさらに深めていった。
日本で麻雀が流行する契機となったのが、灘氏とも親交が深かった作家の五味康祐氏による小説だった。「昭和40年ぐらいに『暗い金曜日の麻雀』っていうのを書いて、これが売れたんですよ。その後で『雨の日の二筒』っていうのもあって、人気が出て」。その流れを受け、阿佐田哲也氏らの麻雀小説も次々ヒット。1970年に阿佐田氏が小島武夫氏、古川凱章氏と「麻雀新撰組」を結成した。
灘氏はそうしたメンバーとしのぎを削り、日本麻雀界のトップに君臨。70年代後半を中心とした麻雀ブームを支え、81年には小島氏とともに「日本プロ麻雀連盟」を設立した。灘氏は当時を「漫画の原作をずいぶん書いてましたね。一番多い時は、月に17本ぐらい。だから、麻雀としてのプロだけど、原作者としての収入が大きかった」と笑いながら振り返った。
対局相手は同じプロだけでなく、芸能界や政財界にも広く及んだという。「美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの『三人娘』とはみんな打ちましたね。後は長門裕之とか」としみじみ。中でも、ひばりさんとの思い出を「ひばりの家はね、家紋が『下がり藤』なんです。一筒の真ん中に家紋を彫り込んだ特注の牌を使ってましてね。それを使って上がると、ドラみたいに一翻付くっていうルールがありました」と振り返り、「熱くなるタイプではありましたけど、遊びは遊び、芸事は芸事と割り切るタイプでしたね」と語った。
そんな灘氏に、麻雀に一番必要なものを問うと、「それは精神力ですよ」と即答。かつて王貞治氏が巨人の監督時代、成績不振に陥った際に「麻雀のプロの必勝法って何ですか?」と問われたという。「やっぱり『ここで勝とう』と思った時、精神を集中させて、役満を狙わなきゃ逆転できないなら役満を狙うし、点棒に合わせて目標に集中することが大事。それが精神力です。王さんとも、最終的にはそういう話になった。普通の人間には、それが難しいんだけどね」と笑った。
そんな灘氏には、大事な一局には必ず守るこだわりがあった。「下着は薄いものを1枚だけ。体を締め付けたくないからね。あと、水分と睡眠。睡眠は3時間ぐらいがちょうど良い。ぐっすり寝て穏やかになるより、3時間ぐらいで起きてピリピリしているぐらいがちょうど良いんですよ」。“カミソリ灘”の意外な逸話だ。
このご時世では文字に表せないような“切った張った”の世界を戦い抜いてきた灘氏。長きにわたった連載に区切りを付け、読者に向け「一応、自分の『これを読んでもらえたら、みんな少しはためになる』と思って。いろいろ書いてきました。もちろん自分のためでもあるけど。読者がいたから書けたので、デイリーさん、読者の皆さんには、いろいろありがたいと思ってます」と感謝を述べた。
◆灘麻太郎(なだ・あさたろう)1937年3月17日生まれ。北海道札幌市出身。小学5年生で麻雀を覚え、大学在学中に麻雀で生計を立てることを決意。北海学園大卒業後、全国を麻雀放浪し、後にプロとなる。獲得タイトルは第一期最高位、第一期プロ名人位、第二期雀聖位、第十~十三期王位など多数。切れ味鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。81年に小島武夫氏らと日本プロ麻雀連盟を創設。84年から第2代会長を30年務め、2013年には名誉会長に就任し79年には歌手デビューするなど、活躍は多方面に及ぶ。
