形見のタイガース帽…父の猛虎魂生きる糧に 阪神・淡路大震災から25年
1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生した。マグニチュード7・3、観測史上初の震度7を記録し、死者6434人、行方不明者3人、負傷者4万3792人、全壊した住宅10万4906棟という甚大な被害を出した震災から、きょう17日で25年を迎える。
がれきの中から見つかった阪神タイガースの帽子のつばには「猛虎命」の字が残されていた。虎党だった父が書いたものだった。
小島汀さん(28)は兵庫県芦屋市のアパートで阪神大震災に遭い、父親の謙さん=当時(36)=を亡くした。自身もがれきの中から救出され、九死に一生を得た。当時3歳。ほとんど記憶はない。
2002年、阪神タイガースの監督だった故星野仙一さんが甲子園球場の試合に震災遺児を招待してくれた。野球に興味はなかったが、母から「せっかくだからかぶっていきなさいよ」と帽子を渡された。この年、阪神は病気や災害で親を亡くした子どもを支援する「あしなが育英会」のステッカーをヘルメットに貼り、活動を応援していた。
「負けるな。勇気を持って前へ進もう」。球場で星野さんから力強く声を掛けられた。生まれる前に父を亡くし、似た境遇だった星野さんの言葉が胸に響いた。「私たちを勇気づけてくれた」。形見の帽子をかぶっていた汀さんは、大きな手でそっと肩を抱かれ、記念写真に納まった。その日から虎党。声をからして応援するようになった。
「もっと近くで阪神を応援したい」。大学生の時には甲子園球場でビールの売り子として働いた。常連客とは顔なじみになり、今も一緒に観戦する仲。昨年12月に挙げた結婚式には、交流があった阪神OBの桧山進次郎さんからビデオメッセージが届いた。「たくさんの人とつながりができた。帽子が出てきたから、阪神ファンになれたのかな」。導かれるように「猛虎魂」を受け継いだ。
中学生の頃、汀さんは謙さんに向けて手紙を書いた。「もし、今お父さんに会えるなら、一緒に甲子園に行って、六甲おろしを熱唱したい」
社会人となった今、気持ちが少しだけ変わった。「一緒にビールでも飲めたらよかったやろな」。少しくたびれ、もうかぶることのない帽子は宝物。今年は何度歌えるだろうか、父も歌った「六甲おろし」を。