KKコンビ撃破 取手二高V腕 石田文樹さん死去…若すぎる41歳

 【2008年7月16日付デイリースポーツ紙面より】

 茨城県立取手二高時代に甲子園でPL学園の桑田、清原の“KKコンビ”と死闘を繰り広げた横浜ベイスターズのチームサポーター(打撃投手)、石田文樹さん(登録名・大也)が15日午前1時40分に直腸がんのため、横浜市内の病院で死去した。41歳。通夜は17日午後7時から、葬儀・告別式は18日午前10時から。ともに新横浜奉斎殿(横浜市港北区菊名7の10の8)で。喪主は妻・寿美江さん。

▼同期入団・石井琢「信じたくない」

 甲子園V投手が41歳の若さで天国に旅立った。石田さんの突然の訃報(ふほう)に、横浜ナインは深い悲しみに包まれた。

 石田さんは取手二のエースとして84年夏の甲子園決勝で当時2年生だった桑田、清原のKKコンビを擁するPL学園の連覇を阻止。全国の頂点を極めた。その後、早大に進学したが中退。社会人の日本石油を経て、88年に横浜大洋ホエールズ(現ベイスターズ)に入団した。中継ぎとして活躍し、94年に引退後は打撃投手としてチームに貢献してきた。

 今シーズンもキャンプ、オープン戦と1軍に帯同していたが、3月に体調不良を訴えた。直腸がんと診断され、4月に摘出手術を行った。その後、闘病生活を続けていた。術後にチーム関係者が見舞った際には「グラウンドに戻って、またバッティングピッチャーをやりたい」と現場復帰に意欲を燃やしていたというが、かなわなかった。

 同期入団の石井琢は、別れを惜しむように石田さんのユニホームを身につけて練習し「余命を知ってからは顔を見るのはつらかった。こんなことは信じたくない」。全選手喪章をつけて広島戦に臨んだ。

▽石田文樹(いしだ・ふみき) 1966年8月22日、茨城県新治村(現土浦市)生まれ。新治中から取手二高へ進み、エースとして84年に春夏連続甲子園出場。夏は全国制覇を果たした。ドラフト5位で89年に横浜大洋ホエールズ入団。実働3年間で25試合に登板し1勝。95年から横浜で打撃投手を務めた。登録名は大也(ともや)。

▼常総学院・木内幸男監督(取手二高時代の恩師)「今朝、学校で悲報を聞きました。病状が良くないということは聞いていましたが、20日ほど前に電話がかかってきて、話したときは声が元気そうだった。悔しいですね。石田は元気印でしたから…。明日(16日)は試合ですが、勝って甲子園に行って、彼とともに優勝したことを思い出しながら戦いたい」

▼お見舞いに行こうと話したばかり 桑田真澄氏

 「今週、お見舞いに行こうと話をしていたばかりでした。ご冥福をお祈りしますとしか言いようがない。同じ青春時代を戦った仲間ですから。長い間、横浜で打撃投手をなさっていたので、試合前に話をすることがあり、高校時代を懐かしがったり『(現役を)長くやってるな』と言われたりしました」

▼心に残る投手 オリックス・清原

 「突然の訃報(ふほう)に大変驚き、ショックを受けております。1984年8月21日、夏の甲子園決勝戦で取手二高のエースとして石田さんと対決したことを、昨日のことのように覚えています。一度もゆっくりとお話ししたことはありませんが、いつも心は通じ合えていたと僕は思っております。対戦した中で、数少ない心に残る投手でした。もう石田さんの笑顔が見られないのがとても残念です。心よりご冥福をお祈り申し上げます」

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