【41】鳴尾球場の足跡(上)

 「日本高野連理事・田名部和裕 僕と高校野球の50年」

 全国高校野球選手権大会が大正4年(1915年)に豊中球場で始まって今年で100年を迎えた。大会では節目の年に相応しい熱戦が続いた。

 ところでこの豊中球場では2度しか大会は開催していない。第3回から鳴尾競馬場のトラック内にできた鳴尾球場に会場が移った。

 鳴尾球場は甲子園球場の南東1・5キロにあった。一周1800メートルのトラック内に2面のグラウンドがあった。当初出場校は10校だったが、第2回から12校になったため、2面あると大会の会期を短縮することができるのが移転の理由の一つ。

 鳴尾競馬場は、明治40年に開設され、その後阪神電鉄が、大正5年3月に、競馬場のトラック内に一周800メートルと直線400メートルの陸上トラック、野球場2面、テニスコートや直線100メートルの競泳プールを造った。

 阪神電鉄は明治40年に夙川沿いに香櫨園遊園地を開設、同43年には大阪毎日新聞社主催で早稲田大学とシカゴ大学の試合が行われたこともあったが、その後この遊園地は大正2年に廃止された。しかし阪神電鉄は、沿線開発もあって鳴尾競馬場の施設を改修し、様々なスポーツ施設を造り、近代スポーツの黎明期に寄与した。

 鳴尾運動場ができた翌年の大正6年、中等野球は豊中から鳴尾に移った。

 甲子園球場の戦前、戦中、戦後、第7、9代球場長を務めた石田恒信さんの「甲子園の回想」が当時の残された貴重な資料だ。それによると鳴尾球場は、2面で同時に試合ができるが両球場の右翼と左翼が接近しているため、隣のボールが飛び込むと試合が一時中断されることもあった。

 競馬場なのでスタンドは固定した観覧席を造ることができず、持ち運びできる木製の移動スタンドが設けられた。10段ほどの階段状で長さは5メートルほど。片方の試合が終わると観衆が協力し、もう一方に運んだ。

 何ともほほえましいが、当時の中等野球は年々関心が高まり、第9回(大正12年)準決勝で、近畿勢同士の甲陽中と立命館中の対戦があり試合開始の2時間前から超満員、一回が終わらぬうちに数千人が雪崩れ込んで中断、しばらく再開できない事態となった。この事態を受け、翌年の甲子園運動場建設となる。

 鳴尾競馬場は昭和18年、海軍によって飛行場として接収され、あのゼロ戦をしのぐ戦闘機・紫電改の試験飛行などが行われた。(「下」に続く)

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