【永山貞義よもやま話】カープ・床田がチームMVP “ベースボール投法”の使い手に ウォーレン・スパーン氏の理論

 “ベースボール投法”の使い手となった広島・床田寛樹
 広島の春季キャンプで臨時投手コーチを務めたウォーレン・スパーン=1975年2月
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 新井貴浩監督の登場によって、最後の最後まで楽しませてもらった今年の新たな赤ヘル野球。そんな中で「一番、印象に残った選手は?」と問われれば、即座に床田寛樹の名を挙げ、チーム内のMVP賞があれば、ためらわず1票を投じたい。

 なにせ入団7年目にして、11勝と2桁勝利を達成したのが初めてなら、規定投球回数に到達したのも初めて。それ以上に、そのピッチングが駆け出し記者の頃、感銘したウォーレン・スパーン氏の理論を体現した内容だったと感じているからである。

 カープ通のオールドファンなら、スパーン氏の名前をご存じの方も多いだろう。現役時代は米メジャーリーグで歴代6位の通算363勝、左腕では歴代1位の実績を残した怪腕。これほどの大投手をカープが臨時コーチとして初めて招いたのは、1975年の春季キャンプだった。

 この年はジョー・ルーツが初の外国人監督として就任。スパーン氏とはインディアンス時代、コーチの同僚だった縁で実現した。この時、2人が持ち込んだ米国流の考え方や練習法、理論などは、すべてが合理的で斬新。それはカープにとって、「文明開化」の第一歩だったかもしれない。

 この中で個人的に目を見張る思いで耳を傾けたのが、78年まで春季キャンプで臨時コーチを務めたスパーン氏のピッチング理論である。その基本としては、まず「スピードの緩急を3段階に区分して投げろ」と言った。

 この「3段階投法」で打者のタイミングを外すだけなら底は浅いが、その上でなお、「ストレートは少し動かして、バットの芯まで外せ」と言うのだから念が入っていた。

 当時、ストレートとは、いかに回転のいい球を投げるかが、日本野球の考え方。スパーン理論とは真逆だけに、普及しなかったが、これほどの米国野球の奥深さには、目からうろこが1枚も2枚も落ちた感じがしたのだった。

 そこから数えて40年近くを経た2015年。この間、次々と新球が開発された中、大リーグからカープに復帰した黒田博樹が変化球をボールゾーンからストライクゾーンに投げ込む「フロントドア」「バックドア」なる米国流の新たな投球術を持ち帰った際には、また「文明開化」の新たな波を感じたものだった。

 その出来事が8年前。ついこの前のようなのに、今では多くの投手が黒田ばりのツーシームやカットボールなどの新球をコースに出し入れし、打者の目を幻惑させている。これも文化と見なされていた日本の野球が急速にベースボール化し、文明的になっている現象の一つなのだろう。

 こうして野球が進化していく経緯を考えていたこともあって、「ベースボール投法」の使い手である床田のピッチングには今年、特に目をこらして見ていた。

 テレビでその球種を注意深く観察すると、ストレートが140キロ台、スライダーとチェンジアップが120~30キロ台、パームとカーブが100~10キロ台。この3段階の急速の変化に加えて、ストレートまがいのツーシームを内外角に投げ分け、バットの芯まで外しているのだから、スパーン氏が見ていれば、きっと拍手を送っていたことだろう。

 おかげで7月末まで9勝したが、8月以降は2勝と失速。CSでも勝てなかったのは昨夏、右足関節骨折しての走り不足が多分に影響したのではなかろうか。端から見れば、器用で野球センス抜群の投手。まだまだ伸びしろがありそうなこの左腕に対しては来年以降、大黒柱としての役割を期待している。(元中国新聞記者)

 ◆永山 貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。阪神で活躍した山本和行氏は一つ下でエースだった。

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