広島・鈴木誠の「たまたま打法」が開花した 懐かしい「たまたま男」長嶋清幸

9月9日の中日20回戦で、1回裏1死から6試合連続となる本塁打を放った鈴木誠=マツダスタジアム
日本シリーズで3本塁打を放ち、MVPを受賞した長嶋=84年10月23日、広島市民球場
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 元中国新聞記者でカープ取材に30年以上携わった永山貞義氏(72)がデイリースポーツで執筆するコラム「野球爺のよもやま話」。広島商、法大でプレーした自身の経験や豊富な取材歴からカープや高校野球などをテーマに健筆を振るう。

  ◇  ◇

 かつてカープに長嶋清幸という勝負強い打者がいたことを記憶されているだろうか。170センチ、81キロというずんぐりした体形とパンチ力のある打撃から付けられた愛称が「豆タンク」を略して「豆」。風貌と同様、いかにも愛嬌(あいきょう)のあるあだ名だったが、私は1984年を境に「たまたま男」と勝手に呼んでいた。

 実際、同年のこの打者の勝負強さは半端ではなかった。まず9月下旬の巨人戦で西本聖、江川卓から連夜のサヨナラ本塁打を放ち、これで勢いに乗ったカープは中日を逆転して4度目のリーグ優勝。さらに阪急との日本シリーズでは7試合で3本塁打、10打点の活躍で日本一に導き、自身はMVPに輝いている。この3本塁打を放った際のコメントが「たまたま打てただけ」。同年、2割7分6厘、13本塁打、43打点という成績の打者にとっては、さすがに謙虚さを装わなければいけなかったからその都度、「たまたま」を連発したのだろう。

 ちなみに私は現役時代、支局勤務がありながら幸運にも、75年から91年まで6度の日本シリーズ取材に当たられる幸運に恵まれたが、その中で特にこの年の光景が鮮やかによみがえってくるのは、試合内容とともに大いに笑えたからでもある。

 それは長嶋が「たまたま」放った逆転2ランでカープが先勝した後の第2戦、北別府学の打球が今井雄太郎投手の急所の「タマ」を直撃したことに端を発している。これがどれほど痛かったかは第3戦、西宮球場の食堂で顔を合わせた際、盆を片手にカニよろしく、横向きに歩いていたことから知れた。それ以降、今井が登板するたびに記者席では、長嶋の「たまたま」とともに「タマ」の話はついて回り、「この日本シリーズはタマシリーズやな」とは取材陣一同の声。そのシリーズも最後はカープが同点本塁打を打った長嶋の「たまたま」に笑い、阪急は最終戦で乱れた今井の「タマ」に泣いたのだった。

 この逸話を思い出したのは、今年9月5日のヤクルト戦で鈴木誠也が3試合連続本塁打に対して、「たまたま」を連発している各紙の報道を目にしたからである。中国新聞によると、「たまたま」の真意とは「こんな小さい球にこんな細かい棒が当たって遠くに飛ぶ。偶然以外ないでしょ」。一方で凡打の多くは自らに原因があると分析し、「たまたまの確率を上げるために日々、積み重ねている」と打撃道の追究者らしいコメントを続けている。この後、「たまたま打法」は2016年の「神ってる打法」以上の精度を確立。球界史上2位タイの6試合連続本塁打を記録したのは、ついこの前である。

 ここまで進化した打法の要因については、「落合博満 バッティングの理屈」(ダイヤモンド社)で同じような実体験を述べている。まず「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治の「ボールが止まって見えた」との言葉を引用。「私は残念ながら(その)状態を体験することはできなかった」と断りを入れながら、究極の打法を水道の蛇口から水を流して細い瓶に入れようとする作業に例えた。大半の水は流れ落ちるが、「最高の状態の時は瓶の口に広い漏斗(じょうご)を付け、すべての水が確実に無駄なく、瓶に吸い込まれていく感じである」。まさに、ついこの前の鈴木は川上、落合の実体験を合わせた状態だったのかもしれない。

 以前、この欄でも書いたが、鈴木と落合は似たもの同士と思っている。常にパーフェクトを目指しているマニアックともいえるその思考と、広角に長打が打てるその打法。まさに「落合二世」と書けば、3度の三冠王と首位打者、本塁打王、打点王をそれぞれ5度、奪取したこの大打者に「まだ実績が足らない」と叱られるか。しかし、落合が初めてのタイトル、首位打者を獲得したのが27歳の時。鈴木が首位打者になったのは25歳の時だから、このままカープにとどまっていれば、今後のさらなる技術向上次第では、これを上回る可能性もある。

 現実的に今年は2度目の首位打者獲得のチャンスではないか。現在はオースティン(DeNA)らと激しい争いを繰り広げている。残り31試合。中日、DeNAと最下位を競っている中、坂倉将吾を絡めたその争いを若手の成長と合わせて楽しみたいと思っている。

 ◆永山貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商高-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商高時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。元阪神の山本和行氏は一つ下でエースだった。

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