長嶋茂雄さん“昭和100年”ミスター死す 89歳、肺炎 心の中で生き続けるあの「3」あの笑顔
国民的スーパースターで「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれた巨人・長嶋茂雄(ながしま・しげお)終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は次女三奈さん。後日、お別れの会を開く。戦後日本、高度経済成長期の象徴的存在だった。娯楽のまだ少なかった時代、巨人の「4番・サード」として、光り輝いていた。勝負強い打撃、華麗な守備、走る姿もまた、格好良かった。もらった感動、元気、勇気、笑顔は数え切れない。ありがとう、ミスター。安らかに。
プロ野球界だけではない、戦後日本を代表する国民的スーパースターだった。華があった。陽気で、周囲には笑顔があふれていた。誰をも幸せにしてくれた、ミスターが逝った。
晩年は、病気との闘いが続いた。アテネ五輪を控えた2004年3月4日に脳梗塞で倒れ、五輪本番では指揮を執ることができなかった。以来、右半身には機能障害が残り、懸命なリハビリを継続。18年7月に胆石が見つかり、約半年間の長期入院を強いられた。22年9月には自宅で転倒し、脳内出血で入院した。
千葉県に生まれた長嶋さんは、佐倉一高(現佐倉)から立大を経て、当時東京六大学リーグ記録だった通算8本塁打を引っさげて1958年に巨人入りした。
国鉄とのデビュー戦では金田正一に4三振を喫したが、その後は噂にたがわぬ活躍。1年目から打率・305、29本塁打、92打点の好成績で本塁打と打点の2冠に輝き、満票で新人王も獲得するなど、スターへの道を歩み始めた。
その存在感を確かなものにしたのが翌59年、天皇、皇后両陛下が観戦したプロ野球公式戦で唯一の天覧試合(後楽園)だ。阪神との伝統の一戦では同点本塁打に加え、村山実から左翼スタンドへ劇的なサヨナラ本塁打。大きな舞台になればなるほど、力を発揮する。そんな姿は、巨人ファンだけでなく、国民全体のあこがれの的だった。
「4番サード、長嶋。背番号3」。王貞治(ソフトバンク球団会長)との「ON砲」で、65~73年の巨人のV9に貢献した。勝負強い打撃はもちろん、ヘルメットを飛ばしながらの豪快な空振り、三塁守備での華麗なランニングスローなど、プレーの一つ一つが見る者すべてを魅了した。
「大変なダブルハプニングで」と振り返ったデビュー戦。ベースを踏み忘れた幻の本塁打に「うれしくて跳び上がってベンチに入ったら、アウトで…」と頭をかいたことも。時に見せるおちゃめな行動や発言もまた、人を引きつける。「ミスタープロ野球」と呼ばれた所以(ゆえん)だ。
現役17年間で首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、新人王、MVP5回、ベストナイン17回、ゴールデングラブ賞2回。74年の現役引退時には「巨人軍は永久に不滅です」との後世に語り継がれる名セリフを残した。
引退後は巨人監督を2期15シーズンにわたって務めた。事実上の電撃解任となった1次政権。93年に13年ぶりに復帰した第2次政権では、翌94年の10月8日に「国民的行事」と言った同率首位の中日とのシーズン最終戦に勝ちリーグ優勝。西武との日本シリーズも制し、監督として初の日本一に輝いた。
「4番1000日計画」で、愛弟子の松井秀喜さんを鍛えていたのも、この時期。世界的プレーヤーに育て上げた功績は大きい。
01年限りで巨人監督を退いた後は、02年12月に04年アテネ五輪出場を目指す野球日本代表監督に就任。03年に五輪出場権を獲得したが、突然の病魔により、志半ばで背番号3のユニホームを脱ぐことになった。リハビリを続ける13年には「遅すぎた」と言われる国民栄誉賞を受賞。松井さんとの師弟そろっての受賞は、大きな話題を呼んだ。
いつの時も国民に元気、勇気を与え、ミスターは昭和、平成、令和の時代を颯爽(さっそう)と駆け抜けた。
◆長嶋 茂雄(ながしま・しげお) 1936年2月20日生まれ。千葉県出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手。佐倉一から立大を経て、58年巨人入団。同年開幕戦の国鉄戦に「3番・三塁」でプロ初出場初先発し、4打席連続空振り三振デビュー。
59年天覧試合での劇的なサヨナラ本塁打など大舞台で勝負強さを発揮し「燃える男」の異名を取った。王貞治との「ONコンビ」で巨人の9年連続日本シリーズ制覇に貢献し「ミスタープロ野球」とも呼ばれた。74年現役引退。
首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、新人王、MVP5回、ベストナイン17回、ゴールデングラブ賞2回。日本シリーズMVP4回。オールスター出場16回。
75~80年と93~2001年の通算15シーズン、巨人監督を務めリーグ優勝5回、日本一2回。88年野球殿堂入り。13年国民栄誉賞受賞。巨人終身名誉監督。





