故・小山正明さんが語っていた「最強の宿敵」長嶋茂雄さん 今でもあの弾道が脳裏によみがえる天覧試合サヨナラ弾
国民的スーパースターで「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれた巨人・長嶋茂雄(ながしま・しげお)終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。
長嶋さんを一躍国民的スターに押し上げたのが、1959(昭和34)年6月25日に後楽園球場で行われた天覧試合。昭和天皇、香淳皇后をお招きしての「巨人-阪神戦」は、激闘の末、長嶋のサヨナラ本塁打で決着をみた。その時の阪神先発は、本紙評論家で4月に逝去した小山正明さん(享年90)だった。生前、長嶋さんへの“特別な思い”を語っていた。
長嶋さんより先に天へ旅立った小山さん。生前、昭和の伝説となった天覧試合、そして『最大にして最強の宿敵』についてこう語っていた。
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長嶋は僕の現役、コーチ時代を通じて「最高の選手」だったと断言できる。僕らの先輩・藤村富美男さんは『ミスタータイガース』やったが、長嶋は唯一無二の『ミスタープロ野球』。それくらい絶大な人気があり、かつ実力があった。プロ野球界への貢献度は本当に計り知れない。
昭和34(1959)年にあったプロ野球初の天覧試合。阪神の先発マウンドに上がった僕は、七回途中まで投げて4失点。1点リードの五回裏に長嶋と坂崎に連続本塁打を打たれ、七回には新人だったワンちゃん(王貞治氏=現ソフトバンク会長)にも2ランを喫した。そんな僕の後を村山(実氏=元阪神監督)が継ぎ、同点の九回裏にあのサヨナラ本塁打を食らうことになる。
ベンチから見ていた僕は「完全に行ったな」と思った。村山は生涯「あれはファウルや」と言っていたが、敵ながらあっぱれの素晴らしい一発やったよ。今でもあの弾道が脳裏によみがえってくる。
天覧試合は彼がプロ2年目の時やったが、入団前からその名は僕らの耳にも届いていた。入団前年のオフ、知人とカネやん(金田正一氏=元国鉄、巨人、ロッテ監督)、青さん(青田昇氏=元巨人、阪神コーチ)の4人でゴルフをする機会があり、その時、カネやんが「長嶋ちゅうのが巨人に入るみたいやが絶対打たせへんで!!」と鼻息荒く言ったことを覚えている。その通り、翌年のデビュー戦だった開幕戦で4連続三振に抑えた。
阪神と国鉄が対戦した際、カネやんが僕に「大したことないで、小山」と言うたが、その後、長嶋に打たれまくった。大変な新人が入ってきた-と思い、巨人が甲子園に来た際にこっそり三塁側のベンチに行って彼のバットケースをのぞいてみた。球が当たっている場所を確認したかったからや。確実に3割を打つ打者は、バットにある“傷域”が狭い。想像通り、長嶋のそれは狭かった。この時点で、彼が新人やという意識は捨てた。
ビデオなんかでよくボール球をヒットするシーンが出てくるが、実際の彼はボール球をあまり打たない打者やった。こっちが“誘い”をかけても絶対乗ってこんかった。普通の打者ならファウルになる内角球でも、身体の回転と類いまれなる技術でフェアにしてしまう。しかも、場面に応じた打撃ができた。本当に厄介な打者やった。ここを抑えても次がワンちゃんやから僕らはたまったもんやなかったよ。
当時の監督だった川上さん(哲治氏)との間をとやかく言う声を聞いたことがあるが、彼は現役時代を通じて明るく朗らかにプレーをしていた。“嫌み”の全くない彼の人柄が、のちに『ミスタープロ野球』と言われたゆえんだと思う。
のちに名球会の集まりやOB戦なんかでよく会ったけど、彼がいるだけで花が咲いたような明るさに包まれたもんや。いつまでも元気で球界を照らし続けてほしいな…。
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通算320勝の誇り高き名投手をしてそう言わしめた長嶋さん。あの世で天覧試合談議に花を咲かせているに違いない。




