南海ホークス万歳 敗戦後、監督自らユニホーム姿でマージャン部屋直行 「ロン!これで明日は勝てる」
かつて大阪に南海ホークスという人気チームがあった。しかし、実力のパを代表する名門球団も次第に衰弱し、没落の道へ。その低迷期を選手として経験した岡義朗氏(デイリースポーツ評論家)が当時を懐かしそうに振り返った。
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古い話にはなるけど、南海と言えば伝統のある名門球団で、鶴岡(一人)監督のもと一時代を築き、野村克也さんら多くの名選手を輩出した。昔は本当に強かったね。今で言う「スコアラー」というポジションも球界でいち早く採り入れた印象がある。
スコアラーは相手チームの情報を入手するというのが役割だが、クセを盗んだりサインを解読したり、そういう抜け目のないことも含めて、南海は他に先駆けてやっていましたね。
球種とコースの解読をして、最後は一塁ベースコーチャーからそのサインが送られる。当然、打者の視線は一塁へ向く。テレビ画面に一連の様子が映し出されると、次第に「あれ?何かおかしいぞ」という雰囲気なってね。その後はベンチからの声やゼスチャーに変わっていったもんですよ。
今でこそサイン盗みや伝達は御法度だけど、かつてはそれが普通だったからね。
僕は1980年のシーズン中に広島から南海へ移籍しているんです。そのころの南海はすでに低迷期に入っていて、大阪球場内の球団事務所なんか、どんよりしていて静かなもの。まず電話が鳴らないし声も聞こえないから、まったく活気がなかったね。
選手はというと、練習する姿勢は適当だし、自分の成績を残すために最低限のことはするけど、チームのことはあまり考えない。逆に人をねたんだり、やっかんだり、挙句の果てにはじゃましたり。中にはそんな選手もいましたよ。
移籍する前年の79年に僕は広島で日本一を経験させてもらっていた。広島ではそれぞれの選手が自分の役割というものを自覚して試合に臨んでいたからね。守備固めや代走が多かった僕も、そういう考えをたたき込まれていたんで、この雰囲気には首をひねるしかなかった。
信じられなかったのは試合後の行動。試合に負けて、お通夜のようなバスで宿舎へ帰り、風呂に入って食事をしたあと、気晴らしにと思ってマージャンルームへ行くと、すでに(穴吹義雄)監督とコーチがユニホームを着たまま卓を囲んでる。これには驚いたね。
せめてユニホームぐらい脱げよと思って「着替えんのですか」と聞いたら、「汚れとらんからええんや」と平気。開いた口が塞がらんとはこういうことだと思ったね。
しかも、「ロン!タンヤオでんでん。1000点でも上がったら勝ちや。これで明日は勝てるぞ」ときたから、「そんなんで勝てるか!」と聞こえよがしに言ってやったもんですよ。
そしたらそのオフ、山内新一さんと一緒に阪神へトレードされちゃってね。それも無償。つまり「いらん」ということ。野球選手として「いらん」と言われたら、それで終わりだからね。
あの当時、僕はよそから来た「異端児」で、なにかと講釈を垂れるから監督には嫌われてたみたい。へたな講釈は監督も垂れてたけどね。それも今となっては笑い話ですよ。
古くは南海でキャリアを加えた古葉(竹識)さんがその後、指導者として広島に戻って黄金時代を築いたのは皆さんの知るところ。いろんな野球知識を持ち帰ったんでしょう。
だから移籍直後は大きなギャップを感じたもんですよ。グリーンのユニホームのあの名門球団がね。野村さんが監督をしていたころまでは強かったけど、衰退して負けグセがつくとタガが緩む。チーム再建の難しさを感じたね。




