日本ハムが開拓 本土復帰5周年から始まった沖縄キャンプ 尽力の小嶋氏が当時を振り返る

 79年、日本ハムの名護キャンプ1年目は高橋一三、高橋直樹、村上雅則、佐伯和司ら主力投手陣が参加した(小嶋氏提供)
 沖縄キャンプ実現を語る小嶋武士氏
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 今やプロ野球の代表的なキャンプ地となった沖縄県。観光産業、そして野球文化の向上という面でもプロ野球と沖縄は深く結びついてきた。先駆者は1979年に初めて沖縄キャンプを開催した日本ハム。沖縄キャンプ移転の中心となり、日本ハムで球団代表取締役オーナー代行も務めた小嶋武士氏(79)に、実現への経緯や当時の思いなどを振り返ってもらった。

  ◇  ◇

 今年で沖縄の本土復帰から50年。プロ野球の沖縄キャンプ開催も、実は沖縄の本土復帰記念から始まった。

 1977年5月。日本ハムが沖縄本土復帰5周年の観光PRや物産紹介を行う「沖縄デー」を開催。球団の取締役管理部長(当時)だった小嶋氏が観光連盟の関係者に発した言葉がきっかけとなる。

 「沖縄は暖かいと聞きますが、2月頃の気候はどうですか?」

 日本ハムは親会社の創業地である徳島県でキャンプを行っていたが、朝夕は気温4度ほどに冷え込む2月上旬の寒さが課題だった。76年にヤンキースのフロリダキャンプを視察していた小嶋氏は、温暖な地でのキャンプ開催が選手の調整に必要と認識していた。

 78年2月に現地調査で候補地を巡り、運動公園が新しく整備され、県内でも比較的風が緩やかな名護市が最有力に。ただ、施設は「ここでキャンプをやりましょうと言える状態でなかった」という。

 排水溝はフェンスに沿って球場内側にあり、外野の石垣に当たった打球はどこに飛ぶか分からない。その状況で小嶋氏の心を動かしたのは地元の熱意だ。

 当時の沖縄の観光産業は夏の海水浴など。2、3月に観光客の姿はなかった。それだけに地元の熱量は大きい。完成間もない施設の改修という難題も「2年間の猶予があれば整備をする」という担当者の言葉を受け、79年は主力投手陣、80年は一部野手を加えるなど順次拡大。施設整備後の81年に全体キャンプ開催の運びとなった。

 当時は対外試合を組むのもひと苦労だった中、85年の米軍との親善試合は今や語り草だ。嘉手納基地の司令長官が「第七艦隊にマイナーを経験した者がいる。集めれば強いチームができる。ハワイやグアムからファントム(戦闘機)で連れてくる」と豪語して招集された米軍チームは、約1週間の調整期間を経て試合に臨む熱の入れようだったという。

 「初回にあっという間に1点を取られ、相手の左腕には三回までパーフェクトに抑えられた。中盤に逆転して勝ったけどね。相手にもスゴい選手がいましたよ」と小嶋氏は懐かしそうに振り返った。

 沖縄のキャンプ地開拓から43年。現在は9球団が沖縄でキャンプを行う。高校野球でも99年のセンバツで沖縄尚学が県勢初優勝。2010年は興南が史上6校目の春夏連覇を達成し、現役の沖縄出身プロ野球選手は26人(育成を含む)を数える。プロの存在を身近に感じられる環境が、発展の一助となったことは間違いない。

 「感慨深いですよね」と話す小嶋氏は今、沖縄でのオールスター実現を夢見ている。さまざまな苦難の中で切り開かれた道は、この先の未来へも、広く大きくつながっていく。

 ◆小嶋武士(こじま・たけし)1943年生まれ。香川県出身。立教大を経て日本ハム株式会社に入社。日本ハムの前身・日拓フライヤーズの買収プロジェクトチームに参加し、その後、日本ハム球団へ出向。77年に取締役管理部長、82年に取締役球団代表を歴任。北海道移転決定後の03年に取締役オーナー代行兼連盟担当に就任。08年に退団後、現在は沖縄県美ら海大使などを務めている。

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