元最多勝右腕の故・高橋里志さんが語った「カープへの感謝」戦力外から新天地で20勝

 往年の名投手がまた一人旅立った。今年1月に肺がんため72歳で死去した元広島投手の高橋里志さん。現役時代は最多勝(77年)と最優秀防御率(82年)のタイトルを獲得したが、プロ19年間で4球団を渡り歩き、その間には、戦力外を受けて1年間の“浪人生活”も送るなど、決して順風満帆な野球人生ではなかった。

 筆者が高橋さんが広島・流川で経営するスナック「Members高橋」を訪ね、インタビューを行ったのは2018年9月。高橋さんは「僕の野球人生はカープに見いだしてもらった。カープのおかげで今の自分があると思っています」と語っていた。

 社会人野球の電電北陸から68年に入団した南海では不遇の時代を送り、チャンスをもらえないまま5年で戦力外通告。73年の1年間は職がなかった。74年、南海でもコーチを務めていた古葉竹識コーチ(当時)から誘いを受けてカープに入団した。

 76年に1軍に昇格し8勝を挙げると、翌年は先発でフル回転。「中3日で投げていました。しかも、今と違って先発完投が当たり前の時代。150球でも200球でも投げてこい!という感じでマウンドで送り出されていました」。武器のシュートが冴えまくり20勝をマーク。最多勝のタイトルを手にした。完投数は14を数えた。

 「新しいボールを身につけたわけでもないし、ピッチングで何かが変わったとかも特にない。一度はクビになった選手。ダメ元で開き直って投げたら自然と結果がついてきた感じ」。オフには年俸が3倍に跳ね上がり、「うれしかったね。毎年オフはクビになるかもしれないとビクビクしていたから。これで生活も楽になるかもしれないと思った」。翌年も10勝を挙げた。

 81年に日本ハムに移籍し、82年に最優秀防御率のタイトルを獲得。さらに移った近鉄でも活躍し、86年限りで引退すると、自宅のある広島に戻り、「Members高橋」をオープンした。「ずっと野球だけをやってきて会社勤めは難しいと思ったので商売を始めることにしたんです。知り合いもたくさん店に来てくれて応援してくれました」。中国放送でも10年間、解説者として活躍。投手心理に迫る鋭い分析は人気を集めた。

 インタビューを行ったのはカープがリーグ3連覇を目前にしていた時期でもあった。高橋さんは「球団ができて、今が一番強いんじゃないですか。打者も個性があっていい打撃をする。控えの層も厚い。私がいた頃のカープも浩二さんや衣笠さんがいて“200発打線”と呼ばれたけど、それ以上だと思う。一匹オオカミみたいな選手が集まっていた昔と違って今は“仲良しクラブ”みたいだけど、それでもあれだけの成績を残せるんだから本当にすごいね」と驚いていた。

 しかし、投手の話題になると、鋭い指摘があった。テレビを通して見る、最近の投手には物足りなさを感じているという。「もっと内角へ投げないと。スライダー、カットボールが全盛期ということもあるんだろうけど、外の球ばっかりでしょ。内角に投げたとしても1球だけ。2球3球と続けて投げないから打者に踏み込まれて打たれてしまうんです」

 内角攻めが少なくなった理由には「度胸がないんじゃないですか、投手も捕手も。甘く入ると一発打たれる恐怖心が常にあるんだと思う」と分析。「もっとキャンプの時から内角に投げる練習をしておかないと。内角球をものにすれば、どんどん結果もついてくると思うんだけどね」ともどかしそうだった。最多勝と最優秀防御率の2つのタイトルを持つ高橋さんの言葉だけに説得力があった。

 カープOB会の副会長としても尽力。少年野球の指導を行ったり、呉港高野球部のアドバイザーを務めたこともあった。「教え子が店に来てくれることもあるんですよ。うれしいね」と目を細めていた高橋さん。カープを愛し、野球を愛した人生だった。(デイリースポーツ・工藤直樹)

 ◆高橋里志(たかはし・さとし)1948年5月17日生まれ。福井県敦賀市出身。敦賀工から電電北陸を経て67年度ドラフト4位で南海に入団。広島時代の77年に20勝を挙げて最多勝に輝く。日本ハム時代の82年にも最優秀防御率賞を獲得。通算309試合に登板、61勝61敗4セーブ、防御率4・44。

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