小山正明さん逝く さようなら「投げる精密機械」 村山実とWエースで阪神のリーグ分立後初優勝に貢献

 抜群の制球力を誇り「精密機械」と言われた元阪神投手の小山正明(こやま・まさあき)さんが18日午前11時20分、心不全のため死去した。90歳だった。阪神球団が24日、発表した。葬儀・告別式は家族葬で行われた。阪神、東京(現ロッテ)、大洋(現DeNA)でNPB歴代3位の通算320勝を挙げた。現役引退後は阪神などでコーチを務め、ユニホームを脱いでからはデイリースポーツの評論家として活躍した。

 最期まで阪神のことを気にしながら、家族に見守られ逝った。針の穴を通す抜群の制球力で「精密機械」とも言われた小山さんが亡くなった。昨年12月に心臓弁の手術を受け、体調が回復していた中、17日夜に胸の痛みを訴え、都内の病院に緊急搬送。集中治療室(ICU)で治療を受けるも、翌18日午前11時20分、静かに息を引き取った。

 日本プロ野球の歴史にその名を残すレジェンド投手だった。

 無名の高砂高から大阪タイガースのテストを受け、1953年に入団。当初は打撃投手として練習に参加した。来る日も来る日も投げ続けた。これが功を奏して制球力がついた。同年途中に1軍に昇格。5勝を挙げ、翌年から主戦投手として活躍した。

 59年に入団した2歳下の2代目ミスタータイガース・村山実と切磋琢磨(せっさたくま)した。59年6月25日に開催された天覧試合の巨人-阪神戦で村山が長嶋にサヨナラ本塁打を打たれたことが有名だが、この試合の先発は小山さんが務めていた。

 リーグ優勝した62年には小山さんが27勝(11敗)で最優秀勝率、沢村賞のタイトルを獲得。270奪三振もリーグトップだった。村山は25勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得。記者投票の最優秀選手賞を獲得した。

 二枚看板として阪神の屋台骨を背負ったが、63年オフに小山さんは山内一弘とのエースと4番打者の「世紀のトレード」で大毎(64年から東京、現ロッテ)に移籍することになった。移籍1年目に自己最多となる30勝を挙げ、最多勝に輝く活躍を見せた。その後もエースとして活躍し、70年には16勝を挙げてリーグ優勝に大きく貢献した。

 現役最終年の73年は大洋(現DeNA)に移籍し、プロ21年で12年連続を含む16シーズンで2桁勝利を挙げた。金田正一、米田哲也に次ぐ歴代3位の通算320勝はさんぜんと輝いている。

 現役引退後は阪神、西武、ダイエー(現ソフトバンク)の投手コーチを務め、後進の指導にあたった。2001年には野球殿堂入りした。

 ユニホームを脱いでからも阪神の本拠地がある西宮市に住み、テレビ解説とともにデイリースポーツで評論家として活躍した。しかし、高齢となり不整脈も出たことで23年に西宮市内のマンションを引き払い、東京都内で娘夫婦と同居していた。

 90歳を超え、自宅でのテレビ観戦が増えた。ただ、24年7月15日に行われた巨人-阪神OB戦(東京ドーム)ではグラウンドに姿を見せることはなかったが、東京ドームホテルの控室で久しぶりに後輩たちと再会した。希代の右腕は、天国で古巣・阪神の躍進をいつまでも見守っている。

 ◆小山 正明(こやま・まさあき)1934年7月28日生まれ。兵庫県出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。高砂高から53年にテスト生として阪神入団。62年には27勝を挙げ、優勝に貢献。64年、山内一弘との『世紀のトレード』で東京(現ロッテ)移籍。73年の大洋(現DeNA)を最後に現役引退。阪神、西武、ダイエー(現ソフトバンク)で投手コーチを務めた。最多勝(64年)、沢村賞(62年)。通算856試合320勝232敗、防御率2.45。2001年野球殿堂入り。

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