「夢叶うまで挑戦」を貫いた上甲監督

 宇和島東と済美の2校でセンバツ初出場初優勝を果たした上甲正典監督(67)が2日、急逝した。訃報を聞いた瞬間、思わず言葉を失った。7月に夏の愛媛大会で堂々と采配を振るう姿を見ていただけに、にわかに信じられなかった。

 四国のスポーツ担当になったのが一昨年12月。それから1年半余り、済美の練習グラウンドには何度も取材に訪れた。選手たちの一挙一動に集中する上甲監督の厳しい表情と叱咤激励の声が、何とも言えない張り詰めた緊張感を生んでいた。

 筆者も愛媛県出身。まだ中学生だった1988年の春、上甲監督率いる宇和島東がセンバツで初出場初優勝を成し遂げるまでの戦いを、テレビにかじりついて応援していた。明神、薬師神という勝負強い打者が大活躍した。試合後のインタビューで、劇的な勝利の要因を問われた上甲監督が「ウチには2人の神様がいるんです」と興奮気味に語ったのを覚えている。

 あれから四半世紀がたって、テレビで見ていた郷土の名将を取材する機会に恵まれた。よく話が脱線する監督だったが、その多くが宇和島東時代の思い出話だった。県内ではまだ松山商の強さが際立っていたころ。「どうやったら松商に勝てるか。そればっかり考えとった」と懐かしそうに話した。

 松山商の固い守備を打ち負かすために、上甲監督は打撃重視のスタイルを取った。ウエートトレーニングを積極的に行い、ノックよりもフリー打撃に時間を割いた。愛媛の伝統的な野球に変革をもたらした監督、と言っても大げさではないだろう。

 済美でも「打ち勝つ野球」を基本方針にチームを作った。ただ昨年のチームは小柄な選手が多く、長打力に欠けていた。剛速球のエース・安楽智大投手がいたが、戦力不足の不安は拭えず「野手が投手に頼りすぎている。打ち勝つ野球をしたいけど、今年はそういうわけにはいかないなあ。どうしようか」と思案をめぐらしていた。フタを開ければ、そのチームがセンバツ準優勝。安楽の力投だけではなく、野手陣の勝負強い打撃も光った。選手の力を余すことなく引き出す指揮官の手腕が際立った大会だった。

 「夢叶うまで挑戦」。上甲監督の座右の銘だ。済美ナインの合言葉にもなっており、試合の日に選手たちの父兄が着るTシャツや応援うちわなど、いたるところにこのフレーズが記されている。

 2度のセンバツ優勝を果たした上甲監督が見た最後の夢は、夏の全国制覇だったに違いない。親しい人々にもがんを隠し、倒れる直前までユニホームを着て采配をふるった。文字通り、「夢叶うまで挑戦」を貫き通した。その上甲イズムは、たくさんの教え子たちによって、新しい世代にも継承されていくはずだ。

(デイリースポーツ・浜村博文)

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