【競輪】世界の本田はすげえんです

 1987年、世界選手権のケイリンで金メダルを獲得した本田晴美さん(中央。右は井上茂徳さん)
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 日本人で唯一、自転車競技の世界選手権ケイリン種目で金メダリストの本田晴美さん(52)。自転車経験のない適性組として、日本競輪学校には51期生で入学。在校成績は71位だったが、1983年4月にデビューすると、9カ月でS級昇格を成し遂げ、その2カ月後にはS級初優勝を飾った。全盛期には、競輪選手のトップクラスで活躍しながら、世界の大舞台でも快走。87年の世界選手権(ウイーン)ではケイリンで金メダルを獲得。そんな本田さんに今回は競輪選手時代を回想してもらった。

  ◇  ◇

 -1980年代、90年代は、自転車競技で世界に飛び出して活躍。

 「(自分は)意外とすげえんですよ。世界選手権3回、ヨーロッパ選手権2回、ワールドカップ1回、東京ドームであった世界大会に1回。全部で7回も国際大会に出て、5回もメダルを獲りました」

 -ケイリンでの出場がほとんどか。

 「1回だけオリンピックスプリント(現在のチームスプリント)に出たな。確かワールドカップで神山雄一郎、北川智博と3人。よう考えたら神山と北川はまだ現役。ワシだけ辞めとるな」

 -何回も出場した国際大会。緊張感はあったか。

 「緊張というよりおもしれえ(面白い)ですね。金メダルを獲ったときも、緊張してませんでした。あのときは井上(茂徳)さんと決勝へ進んで『どっちかが(メダルを)獲れたらエエな』くらいの気持ちやったんです。井上さんを連れて先行するという考えしかなかったのに、終わってみたら『あれ、優勝したわ』って感じでした」

 -金メダル獲得は87年の世界選手権。

 「オーストリアのウイーンでした。あのころはかなり話題になりましたね。でも、今ならもっともっと話題になったんでしょうけどね。あの世界選はボクがケイリンで金、井上さんが銅、スプリントで俵信之が金、松井英幸が銀。日本勢が4つもメダルを持って帰ったんですよ。すげえでしょ。中野(浩一)さんが前年(86年)にスプリント10連覇を達成して、この年から世界選に出なくなったんです。でも、日本勢が4つってすげえわ」

 -あのころの本田さんは「世界のホンダ」「ターボエンジン」など呼ばれていた。

 「そうです。名前に引っかけて呼ばれていましたね」

 -自転車の国際大会といえばヨーロッパ。

 「1回だけオーストラリアに行きましたが、東京ドーム以外は全部ヨーロッパ。夜の街に繰り出すのも面白かった。キャバクラみたいなところに行って飲みましたね。食事は日本から材料を持ってきてくれていて、それを宿泊先で作ってもらうんです。日本食が中心だったので、何の問題もなかったです。だから、日本国内でレースするような感覚で臨めましたね」

 -宿泊は選手村か。

 「いえ、ホテルでしたね。五つ星ホテルちゅうんですかね。最上級のホテルを用意してもらえました。1987年の世界選は2人部屋でしたが、コンドミニアムくらいに広いんですよ。しかも競技別に別れると思ったら、同期の俵と一緒。問題ないどころか、快適に過ごせましたね」

 -話は前後するが、本業の競輪はデビュー直後から注目されていた。

 「そうですね。新人リーグが終わって、まずA級3班で格付け。あのころは3場所連続、1期間(4カ月)4場所優勝でS級に行けたんです(特別昇級)。ボクは優勝、優勝、決勝戦失格、飛び、飛びで優勝、優勝でS級に上がれました」

 -本田さんは現役当時、唇に塩をたっぷりつけて競走に臨んでいた。

 「A級に落ちる前くらいからせんようになったけどね。(唇に塩を塗ることを)当時はいろいろ書かれました。レース中に塩をなめると喉が渇かんとかね。でも、ホンマは違うんです。S級に上がってすぐかな。一緒の開催になった松枝(義幸)さんがやっとるのを見て始めました。人と違うことをやるのが好きなもんでね。塩を塗っとる姿は『やる気モード』に入っとるように見えるじゃろ。あれが格好良く見えたんで塩を塗りだしたんです。その塩のおかげでNHKにも取材されましたから、松枝さんのまねして良かった」

 -今はなき甲子園でS級初優勝。その後もS級上位で長らく活躍。

 「そうじゃな。でも、やっぱり特別競輪(現在のG1)を獲りたかった。世界選のケイリンで金メダルを獲ったのはエエんじゃけど、国内の競輪でもっと活躍したかった」

 -本田さんは厳しい練習をこなしながらも愛煙家。現在の競輪選手に愛煙家は少ない。

 「ワシはタバコが好きで、記者さんたちから取材されるときも、よく吹かしとった。国際大会に出るときなんかはトレーナーから『タバコをやめたらもっと成績が良くなる』とか言われたけど、やめんかったね。こんなことを言いつつ、タバコをやめたことはあったけど、成績は悪かった。だから、結局は吸い続けましたね。競輪が(距離が)100キロ(の)レースとかだったら、タバコを吸うとキツい。でも、真剣に踏むのはたかが40秒ほどじゃもん。タバコを吸おうが吸うまいが関係ないと思う」

 -さらに話はさかのぼるが、競輪学校時代の成績は。

 「日本競輪学校51期生125人の中で71位でした。半分よりかなり下でした。その後は練習を一生懸命しましたからね。競輪学校で優等生でなかったのに、日本人で唯一、ケイリンで金メダル。分からんもんですね」

 -競輪の岡山勢、S級は多いが、最近はあまり元気がない。

 「そうじゃな。三宅伸以降はG1覇者が出てないんは寂しいな。ワシの前に岡山の誰かがG1を獲ってくれとったら、ワシも獲れたかもと思うときがありますね。S級は多いんじゃから、もっと頑張ってほしいですね」

 -玉野競輪のマスコットキャラクター「ガッツ玉ちゃん」は本田さんをイメージしたとの話も…。

 「それは違います。ワシがデビューする前から『ガッツ玉ちゃん』はいましたよ。顔がちょっと似とるだけで、そんなことを言う人が多いみたいで…。『ガッツ玉ちゃん』は大先輩ですよ」

 -最後に自分の名前がレースのタイトルになった気持ちを。

 「とにかく、うれしいですね。玉野では選手の名前がタイトルになったことがないそうなのでね。早く初代覇者に会いたいね」

  ◇  ◇

 本田晴美(ほんだ・はるみ)1963年11月12日生まれ。52歳。日本競輪学校51期生で、83年4月に名古屋でデビュー。同9月の豊橋でA級初優勝、84年2月に甲子園でS級初優勝とハイペースで最上位クラスへ駆け上がった。自転車競技では、87年にオーストリアのウイーンで行われた世界選手権のケイリンで金メダルを獲得。これ以降『世界のホンダ』という愛称で呼ばれるようになった。同年ヨーロッパ選手権(ノルウェー)銀メダル、89年ヨーロッパ選手権(ベルギー)銀メダル、95年ワールドカップ(オーストリア)銅メダル。国内の特別競輪(現在のG1、G2)で優勝はないものの、記念競輪(同G3)はV26。地元の玉野では記念で3回優勝している。2000年代後半にA級に陥落したが、その後も勝ち星を積み重ね、12年10月の玉野で通算500勝を達成。15年6月27日に玉野で現役を引退した。通算2822走で519勝。

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