津田恒実さん もう三十三回忌 短いプロ野球人生でも、悔いのなく送れたのでは カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球
広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。ONと名勝負や、チームメートとの思い出、今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。
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津田恒実が亡くなって久しいが、7月20日に三十三回忌を迎えたことを聞かされ、改めて月日が経つのは早いと感じた。もうそんなになるのかねぇ。
彼が入団したとき、僕は当時の古葉監督に「これからの抑え投手は三振が取れないとダメだからストッパーにしたい」とお願いしたんですよ。ところが古葉さんは「せっかく1位で入団したんだから、そのまま先発でいこうや」と。そしたら1年目11勝、2年目9勝。先発投手として十分な活躍を見せてくれた。
球は本当に速かった。160キロぐらい出てたんじゃないか、と思うぐらい。カウント球も勝負球も9割が直球。変化球は見せ球。ダイナミックな投げ方でね。マウンド度胸がよく切り替えも早かった。
「弱気は最大の敵」を座右の銘にしていたが、試合に入ると強気一辺倒。その後、右手中指の血行障害のために球数を抑える必要があってリリーフに回ったが、あの物おじしない性格はストッパーに向いていたと思う。
まじめな男でね。ゲームで投げるかもしれないのに練習中、スタンドの階段の上り下りを必死でやるんですよ。試合が終わったら今度は反省の気持ちを込めてまた走る。放っておいてもよく練習する選手だった。
そうかと思うと普段はものすごくひょうきんでにぎやか。人柄もいいからみんなに愛されていた。歌はあまりうまくなかったけど、人を笑わす歌が多かったね。川口や川端、金石、清川、長冨らと一緒によく飲みに出たもんですよ。
1986年。リーグ優勝を決めた神宮でのヤクルト戦で北別府をリリーフして胴上げ投手になった。完投ペースだったのに「最後は津田に」というペイの計らいで登板機会を得たが、ブルペンからマウンドへ走って行った姿が忘れられない。「北別府さんの気持ちに応えたい」という思いがあの“疾走”に詰まっていた気がする。
もうひとつ忘れられない思い出がある。(1991年のシーズン終盤)脳腫瘍で入院していた福岡の病院に当時の山本浩二監督らと見舞いに行った日のこと。
眼球も口も動かすことができない津田に向かって「じゃあ日本シリーズで待ってるからな」との言葉を残して病室を出たら、すぐに奥さんが走って来て、「主人が呼んでます」という。
病室へ戻ると、津田の口もとが動いているのは分かったが、理解できない。奥さんに「何を言っているのですか」と尋ねると「ウチの人が“安仁屋さん、飲み過ぎんように”と言ってます」と。
自分自身が厳しい状況なのに、重い空気を払うようなこんなジョークもまた津田らしいと思ったね。しばらくして回復の兆しは見えたが、再びユニホームを着ることはなかった。残念としか言いようがなかった。
彼は86年にカムバック賞を取っている。右肩痛や血行障害に悩まされながらも見事に復活しただけに僕としても感慨深いものがあった。
悲しいかな脳腫瘍からのカムバックはかなわなかった。しかし、短いプロ野球人生ではあったが、彼にとっては悔いのない野球人生を送れたんじゃないだろうか。僕はいまでもそう思ってますよ。
◇安仁屋 宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。





