嘉義農林がまいた種…郭源治氏との縁

 映画「KANO~1931海の向こうの甲子園~」が昨年は台湾、今年は日本でヒットした。KANOとは台湾の嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の愛称で、映画では日本統治下にあった時代、初出場で準優勝を果たした快進撃が描かれている。当時の監督は、松山商業出身の近藤兵太郎。“外地”の学校を率い、民族の垣根を越えた近藤氏の足跡、そして嘉義農林の歴史が今に伝えるものを、書く。

 嘉義農林は南部からの初出場であると同時に、それまでの台湾代表は日本人によるチームだったが、嘉義農林は漢民族、日本人、そして高砂族(先住民)の混成チームだった。

 躍進の原動力となったのはエースの呉明捷(漢民族)。ダイナミックなフォームから繰り出す速球にカーブとシンカーを巧みに操る制球力もあった。2回戦の神奈川商工戦では1安打完封。これは台湾代表初の快挙だった。

 映画「KANO」では小市慢太郎が演じる新聞記者が喝采を送るシーンがあるが、その元になっているのが作家の菊池寛が大会終了後に東京朝日新聞に寄せた「甲子園印象記」だ。『嘉義農林が神奈川商工と戦った時から嘉義びいきになった』。高校野球がファンをひきつけるのは「郷土愛」と並んで「判官びいき」だが、その第1号と言ってもいいのがこの大会での嘉義農林だろう。

 のちに「麒麟児(きりんじ)」と呼ばれる明捷が生まれたのは、12年2月17日。北部の苗栗という街で、父は裁判所の書記官を務め、広大な土地を所有する地主だった。苗栗と嘉義は、当時は列車で4時間。農業を学びたくて進学した。

 最初はテニス部。近藤に見いだされ、スパルタ練習で明捷の才能は開花した。甲子園では打者としても4割1分2厘の大活躍。腸チフスのため、1年遅れで進んだ早大では野手に専念し、通算7本塁打を放った。これはのちに長嶋茂雄に破られるまで、東京六大学の最多タイ記録だった。しかし、早大で野球とは決別した。

 「プロからも誘いはありましたが、断ったみたいです。息子としてはプロに行ってもそれなりの記録は残したんじゃないかと思いますが、アマチュアリズムとでもいうのでしょうか。『お金をもらって野球を見せようとは思わなかった』と話していました」

 こう話したのは次男の堀川盛邦氏(59)だ。明捷は71歳で亡くなるまで台湾籍のままだったが、4人の子どもたちには日本国籍を選ばせ、妻の姓を名乗らせた。

 嘉義農林がまいた種は、思わぬところでも花を咲かせていた。中日で通算106勝116セーブを挙げた郭源治氏(58)だ。

 「僕たち先住民には娯楽がない。野球が遊びだった。でも、野球の基礎を教わったのは嘉農の人だった。嘉農がなければ今の僕はないんです」

 源治に野球の手ほどきをしたのは、郭光也、子光親子。父・光也は36年に嘉義農林が最後の甲子園に出たときのメンバーだった。その源治が今度は台湾で子どもたちに野球を教える…。84年前にまかれた野球の種は、今も台湾で育っている。

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