開業1年目の井上師が激動のなかで得た気づき 調教師試験合格から3カ月足らずで開業 「結果は後からついてくる」
激動だった。気づけば夏が終わろうとしている。井上智史調教師(43)=栗東=は、昨年12月の調教師試験合格から3カ月足らずで開業。通常は合格後に技術調教師として1年間の準備期間があるが、引退調教師の人員の関係で即開業となった。慌ただしい船出だったものの、活躍は目覚ましい。
1年目に与えられた馬房数は14と限られたなかで、JRAで7勝(地方2勝=25日現在)をマーク。複勝率25・6%は中堅、上位厩舎とも遜色ない。井上師は「全然間に合わず、中途半端な状態でスタートしました」と懐かしそうに開業時を振り返る。牧場や馬主へのあいさつ回りもままならず、厩舎服も未完成。馬具や治療器具、厩舎運営に必要な備品も足りず、ホームセンターに頻繁に通った。
スタッフの確保もひと苦労だった。解散厩舎に名刺を持って頭を下げるも、大多数は行き先が決まっている状況。それでも何とか人員を確保したが、スタッフとの顔合わせは数える程しかなかった。「従業員も『誰やこいつ』状態だったかも」と苦笑い。そこから少しずつ信頼関係を築いた。
厩舎方針は、スタッフが働きやすい環境を整え主体性を持って仕事に取り組んでもらうこと。「ベテランも多いですし、ある程度は好きなように。一方で厩舎経営も人ごととしないでほしいと。みんなの厩舎ですから」。重大な決定や調教師としての必要な判断を除き、適度な裁量と使命感をスタッフに持たせる。調教でも乗り手の感覚や経験を尊重。具体的な時計の数字も指示はしない。
井上師は動物好きとゲームの影響で競馬の世界を志した。付属の高校から同大経済学部に進学したが、「早く競馬界に入りたい」と学業に見切りをつけて海外で調教助手に。その後、トレセン入りして松永幹厩舎で勤務。同僚だった斉藤崇師の合格も刺激となり、調教師を本格的に目指した。
初受験から延べ12年、途中で心が折れて2年の中断期間もあった。「最後に3年だけ。これで駄目なら諦めるつもり」と受けた10回目の挑戦で合格した。「好きなことをやっているのに苦しかった時期も多かった。そこで気づいたのは、人も馬も気分良く健康な状態で仕事できるか。調教師の仕事は人を見ること、馬を見ること、責任を取ることの三つだと思います」。競馬、ひいては人生や家族についても深く考えた期間。馬も人もいかに伸び伸びと適材適所で良さを引き出せるか。今はそこに注力している。
厩舎にはマネジャーとして、海外にいた頃から旧知の仲である元騎手の藤井勘一郎さんがいる。「勘一郎が騎手の道を閉ざされた後、『楽しいな』と思える仕事ができたら人生が豊かになるかなって。現場でやっていくのが好きな人間ですしね」。井上師がトレセン不在時などは馬の状態など藤井さんから報告を受ける。「僕が誘ったんですが、すごく助かってます」と感謝を込める。
そして所属騎手でもある鷲頭虎太騎手(21)の育成にも情熱を注ぐ。「乗鞍が減っていた時に紹介されましたが、最初に『助手として扱う気はない』と言いました。21歳の若者を雇うというのは育てる責任もありますからね」。実際に積極的に騎乗機会を与え、昨年はJRAで1勝に落ち込んだ鷲頭の勝ち鞍は今年既に9勝。うち自厩舎で4勝、地方でも2勝を挙げている。
井上師に今後の目標について尋ねると「あのレースを勝ちたいとか言えればかわいいんでしょうが」とニッコリ。「やっぱりスタッフ全員が定年まで気持ち良く働き続けられること。若い人たちが『競馬の世界で働きたい』と思える働きやすい環境に、まずは自分の厩舎をしていきたい。勝負の世界だからこそ勝ち負けにこだわり過ぎない。結果は後からついてくると思っています」。厩舎と業界全体の将来を見据えた若き調教師の挑戦は、まだ始まったばかりだ。(デイリースポーツ・島田敬将)
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