「同級生」の絆を思う

 【1月18日】

 1・17に「震災の記憶」を書いたら、また方々(ほうぼう)から反応をいただいた。他社のセンパイは当時グラウンドが液状化した鳴尾浜の写真を添付して、こんな言葉を送ってくれた。

 「捨てられずに持っていた。生きさせてもらって良かったよ」

 このセンパイは少し前に重病を患い、死と隣り合わせだった。神戸の病院で見舞った時も「なんとか生きとるから大丈夫や」と笑っていたけれど、27年前の辛い記憶も生きてこそ語れるもの…。そんな思いが伝わってきた。

 「いつもコラム読んでいるよ。示唆に富んだ内容を目にすると感想というか“いいね”を送りたいときがあるんだけど、恥ずかしくてな。あの入社式は忘れていないよ。改めて初心を思い出したよ、ありがとう」

 これは、わが社の同期でもある同級生が送ってくれたメールだ。

 神戸三宮の本社が崩壊し、仮設のプレハブで臨んだ1995年の入社式。僕のなかでも、あのときデイリーに〈入団〉した同志は特別な存在である。

 「同級生」で思い出す。

 震災のコラムを書くため古い紙面、書物を探していると、前述のセンパイではないけれど、捨てられないものがたくさん出てきた。

 「ぼくのバッティングが本調子やったら、あの場面、(三塁ベースコーチの)和田さんは金本を三塁で止めたかもしれない。金本が激走してくれて、あちこちに痛いとこもあるのに全力でキャッチャーにぶつかりにいってくれて…でも、その原因を作ってしまってたのは、次のバッターだったぼくなんですよ。あれはものすごく責任を感じました」

 これは08年秋に発刊された雑誌Numberの「阪神特集号」で矢野輝弘(当時)が語ったもの。あのとき、僕はこの原稿に矢野のfor the team、for the friend…「同級生」の絆を感じたのだ。

 あの年、優勝を争う9月のヤクルト戦、八回2死二塁の局面で桧山進次郎がレフトへ安打を放つと二塁走者の金本知憲は本塁へ突入し、捕手と激突。生還を阻まれ、手術明けの左膝を強打してしまった。際どいタイミングだったが、腕を回したコーチ和田豊も、三塁を蹴る金本も躊躇なかった。

 北京五輪帰りの矢野は打撃不振で自責の念にかられていた。あの試合もベンチスタート。俺がもっと打っていればカネは三塁でストップできた…そんな悔恨が「責任を…」の述懐に繋がったわけだ。

 結局、同試合は最終回に矢野がサヨナラ弾を放ち、M22を点灯させたわけだけど、このクロスプレーをさかいに矢野の打撃に変化があった記憶が残る。「あれ(金本の突入)で本当にこのままじゃまずいと思った…」。矢野はバットを拳ひとつ短く持ち、ファウルで粘った末に11球目をバックスクリーン右へ…。金本と抱き合った。

 あの試合を思い返すとき、今のタイガースでも、固い「同級生の絆」を見られる気がして…。また書ける機会に。

 =敬称略=

関連ニュース

編集者のオススメ記事

吉田風取材ノート最新ニュース

もっとみる

    スコア速報

    主要ニュース

    ランキング(阪神タイガース)

    話題の写真ランキング

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス