【阪神ドラフト選手特集・立石正広(上)】母は元日本代表、バレーボール一家で野球に進んだ少年時代を振り返る
10月のドラフト会議で、阪神から指名を受けた7選手(1~5位・育成1、2位)の連載をお届けする。初回はドラフト1位の立石正広内野手(22)=創価大=で、バレーボール一家に生まれながら、野球に進んだ少年時代を振り返る。
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2003年11月1日、立石家3人きょうだいの末っ子として、正広が誕生した。「正しく広い心を持ってほしい」という両親の願いで名前がつけられた。母・郁代さんは1992年バルセロナ五輪の女子バレーボール日本代表で5位入賞。父・和広さんも大学までバレーボールに打ち込んだ。6歳上と8歳上の姉も、正広が物心ついた頃には、競技を始めていた。小さい頃は姉の春高バレーの応援で東京へ行くのが、正広のお正月のイベントだった。
そんなバレーボール一家で育ち、家族と同じ道に進むかと思われたが、野球経験のあった父は、早々にグラブを用意していた。正広は父とのキャッチボールで野球と出会った。山口県防府市の華浦小学校に進むと、親友から誘われ華浦スポーツ少年団に入団。本格的に野球を始めた。本人も幼心ながら「プロ野球選手」を将来の夢に掲げ、純粋に白球を追いかけていた。
正広が小学6年になると大きな転機が訪れる。当時、高川学園中のシニアで監督を務めていた安藤拓氏(現高校野球部副部長)が試合を視察した。全国大会を懸けた大一番で、投打の活躍を見せた正広のプレーに目を奪われた。最初の印象は「打球が遠くに飛ぶなと。ピッチャーでもいいボールを投げていた」。能力の高さをすぐに感じとった。
目についたのは技術だけではなかった。まだ幼い小学生をスカウトするにあたって、安藤監督なりの方針があった。「子どもたちの目つき顔つきを見ます」。いいプレーをした後、凡退した後、仲間がミスをした後、どういう態度をとるのか。見極めの大きな判断材料だった。その上で、正広の姿にほれ込んだ。「野球に向かう姿勢が素直で純粋で、野球が好きだっていうのがにじみ出ていた。こういう子と夢を追いかけたいと思うような子でした」と当時を振り返る。
強豪校からの勧誘を受けた正広は、喜んで進学を決めたという。硬式野球に触れることが、あまり多くない地区。さらには中高一貫で、甲子園も目指せるレベルの高い環境に進めることがうれしかった。ただ、進んだ高川学園で衝撃を受けることになる。
【立石正広(たていし・まさひろ)アラカルト】
◆生まれ 2003年11月1日生まれ。22歳。山口県防府市出身
◆家族構成 両親、姉2人。母・郁代さんは1992年バルセロナ五輪女子バレーボール日本代表
◆サイズ 180センチ、87キロ
◆投打・ポジション 右投げ右打ち。内野手
◆脚 50メートル走6秒0
◆球歴 華浦スポーツ少年団で小学1年から野球を始める。高川学園中では高川学園シニアに所属。高川学園では3年夏の甲子園出場。創価大では1年春からリーグ戦に出場。大学3年から日本代表に選出
◆小さいころの習い事 水泳
◆趣味 お笑い鑑賞。好きな芸人はかまいたち
◆好きなタレント 福留光帆
◆好きな歌手 TWICE
◆座右の銘 恩返し
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